オルゴール  

 そうした事で、わたしは後悔をしているのではない。
 むしろ、それでよかったのだと思っているのだ。
 それでも、こうして昔から使っている木製の柔らかい机の前に座って、その樹の箱の蓋を開けると、どうしても泣きたくなってしまうのだ。
 暖かく気高い音がぽつぽつと、まるで雨でも降っているかのように鳴り響き、わたしの狭い部屋を満たす時。
 少し高級そうに見える金色の棒がその樹の箱の中でぐるりと廻り始め、一つ一つの音を丁寧に鳴らしていく時。
 その、見かけよりも軽い樹の蓋に手を触れて、それを開こうとする時。
 まるで自分のものではないかのように、思考が、過去へと遡ってしまうのだ。幾ら押しとどめようとしてもそれは不可能で、そんなことは小さなオルゴールを手に取った瞬間から分かりきった事で。
 理性がいくら思い出す事を拒否しても、わたしの中では今でもその時の事を懐かしみ、求めているのは否めない。幾ら思い出すまいとしても、自分の中でその時を思い出しそこに浸ろうとしているのを否定できない。
 例えこの理性が思い出す事を押し止めたとしても、その次の瞬間に自らその制御を外す事は分かりきっている。
 そう、この期に及んでも、わたしはその過去を捨て去ることは出来ずにいるのだ。
 この思いが他人にとっては軽い、そして忙しい日常にすぐ埋もれてしまうようなものだとしても、わたしにとってはそうではない。
 とても大切で、重い物。
 この思い出を永遠に、胸の痛みの中に残しておきたいと、そう思うのだ。
 この、古めかしく見えるオルゴールとともに。

 小さな、そして少し重い色をしたこのオルゴールは、大した事は無い、中学最後の思い出にと彼がくれた物だった。
 直ぐ近くにオルゴールの専門店があり、しかも安い物が幾つも売っていたから、そこで買ったのであろうことはすぐに分かった。
 木材の表面に触れれば、指先にはざらざらとした感触が残り、冷たい金属の装飾にも大して何か彫ってあるわけでも無い。流れる曲は知らないもので、確かに部屋を満たして行く暖かな音の羅列は気持ちの良いものだったが、正直、あまりありがたいとはいいがたかった。
 彼、とはいうものの付き合っていた訳でもなく、ただ仲が良い方だったといった感じか。しかし友人に付き合ってるのかと聞かれた時も、特に否定はしなかったから、そうと認められているのも同然だったのかもしれない。
 ともかく、そういった関係……友人以上恋人未満、という奴なのだろう。
 彼とはそういった話はした事はなかったので、彼もそう思っていたという証拠は何一つとしてないのだが、別に対した問題では無い。
 中学に入ってから知り合った彼は、その中学から遠い家から通っていた。
 だからこそか、世界の狭かったわたしを色々な所へ連れ出して、中学生にしては少し広い世界を作り上げてくれた。わたしの見た事がない道や河原を、彼のこぐ自転車に乗って見て周るのは、その時のわたしにとってはちょっとした冒険だったのだ。
 風を切るようにして走って行くと、まるで、空でも飛んで行けそうな気がする。あまり長くない髪を後方になびかせながらわたしが言うと、彼は楽しげに笑って、そのスピードを上げてくれたのをよく覚えている。
 もちろん周囲の土地についてだけではなく、その他、様々な知識を広げてくれたのも彼だった。
 雑学が豊富で妙な事を多く知っている彼は、息も切らさず自転車をこぎながら、様々な事を語ってくれた。それは、近くに建っている家の話だったり、直ぐ横を流れる木々の話だったり、また日が暮れて幾らか星が見えるようになればその話だったりした。
 まるで映画のように移り変わっていくのが彼の話の特徴で、話していて全く飽きの来ない奴だった。
 しかしそんな彼とは、中学の卒業を目前にしてぱたりと話すのをやめてしまった。
 お互い違う高校になってしまったし、それでも一緒にいることは殆ど不可能だと、無意識のうちに悟っていたからなのかもしれない。
 こういった時期、わたし達にとっての生活範囲は学校に限られるのだ。だからこそ、学校を違えるのは二人にとって、会えないという言葉と全く同じ意味を持っていた。
 会えなくなるのを知って会っていられる勇気など、わたしにはなかったのだ。
 それでも卒業式で、強い風に乗って舞い降りる桜の元で、わたし達は再び会ったのだ。
 その時に見てしまった彼の笑顔で、わたしは初めて、彼が好きだったのだ、という事に気が付いた。
 運動も得意ではないし頭もわたしより悪いかもしれない彼に、強く心惹かれていたのだと初めて気が付いたのだ。
 その時、少し悲しそうに笑って彼が差し出してきたのが、このオルゴールだったのだ。
 また会おうよと、それに似た言葉を掛けられた。
 卑怯だ、と思った。
 多分その時から彼は、それが断られる事を知っていたのだ。それでもその言葉を掛ける事で、わたしに最後の望みを掛けた。
 いいよ、と言って欲しいと、彼ははっきりとそう言っていた。
 けれど、それは出来ない事だった。
 新しい生活を手に入れればその中で生きていくしかないわたし達は、否応なく新たな流れに呑みこまれ取り込まれ、その中に入って行くしかないのだ。
 そうなった時に、彼の中でのわたしという存在、またわたしの中での彼という存在がオモリとなって、二人を流れの中へ沈め、止めてしまう事は目に見えていた。そして彼もそう思っていて、わたしがそう考える事を知っていながらも、彼はそう問うたのだ。
 この時の彼は、とても卑怯だった。
 だから最終的に、わたしは彼を振った。
 それは高校での生活に流れ込んだわたしにとってみれば完全なる正解だったし、彼にしてみてもそうだっただろう。二人の思いはオモリになる事はなく、小さなトゲが突き刺さる事もなかった。
 それなのに、わたしはこのオルゴールを見る度に、触れる度に、開く度に。その、空から舞い降りてくるような澄んだ音色を聴く度に、どうしようもなく泣きたくなるのだ。
 それは後悔でもなく喜びでもない、濡れた想い。
 誰に理解されるでもなく沈み込んでしまった何かが、自分の中でうずいているのだ。

 わたしは立ち上がり、その過去から身を脱却させて、そっとオルゴールの蓋を占めた。
 彼がくれたオルゴールはそれでも、わたしを束縛する物ではない。ただ何かを思い出させてくれる、大切な、宝物なのだ。

 感謝の賛歌。

 彼と出会った事に、二人で過ごした短い時に、彼と共有した思い出の数々に。
 そういった全ての事に、感謝の意を捧げたいと思う。
 彼が思っていたように、わたしも、その出会いの奇蹟に感謝しているのだから。



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