氷の花  

 他人にとっては、どうでも良い物に見えるかもしれない。それでもこれは、僕にとって、そしてきっと彼女にとっても、どうでも良い物などではないのだ。
 氷の花。
 彼女はこれを、そう呼んでいた。
 氷の花。
 透明なガラスの中に、ぽんと咲いた可憐な小さな赤い花。いつか溶けてしまうのではないかと思った。春が来て、暖かくなったら溶けてしまいそうなほどに儚く見えた、赤い花。
 とても綺麗なその花を、彼女は僕にくれた。
 誕生日でしょ、と笑いながら。
 氷の花。
 何度春が巡って来ても溶ける事はなく、いつまでも僕の所に置かれていた。手に触れればいつも冷たく、硬く、僕を拒むようにして透明なガラスが指に触れる。中に咲く花は枯れる事はなく、いつもその輝きを僕の前に見せてくれていた。
 彼女は覚えているのだろうか。
 この花を、僕にくれたことを。
 それとも、忘れているだろうか。
 僕達の思いが、氷のように溶けてしまったから。

 彼女、とは言うものの別に付き合っていたわけではない。ただ、何となく連れあうようにしていた、中学の中で最も仲のよかった女子が彼女だった。そうは言っても、付き合っているのかと聞かれて、はっきりと答えることが苦手な僕は曖昧に笑ってごまかしていたから、そうなのだろうと周りには認知されていたようだ。彼女は気が付いていないようだったが、二人で話していると、僕の友人は敢えて僕達に気が付かないフリをしてくれていた。
 それは別に僕にとってはありがたいことでもなんでもなく……いや、ありがたかったのか。僕は彼女と、友人以上恋人未満というような関係の彼女と一緒に話せることが、とても嬉しかった。あの時の僕は、正直、それが当然で、ありがたいことだともなんとも思っていなかったのだが。
 中学に入ってから知り合った彼女は、あまり世界と言うものを知らなかったようだ。
 遠くから歩いて中学に通っていた僕は、しょっちゅう彼女を連れ出して自転車に乗せ、様々なところを回っていった。そして、色々な事を話した。しゃべって聞かせた。
 自転車で通り過ぎた川について、今通った橋、あのお店は、今見える星は……。
 一生懸命に僕の話を聞いてくれるのが嬉しくて、僕は一心に話をした。自転車の後ろで立ち上がり、身体に風を浴びながら、飛んでるみたいだと彼女が言った時も、思わず笑ってこぐスピードを上げた。
 彼女と居ると、笑うことが多かった。口数も多くなった。
 だから、いつも一緒に居たのだろう。
 いや、そうじゃない。
 僕は多分、どこからか彼女が好きになっていたのだと思う。それでも、彼女が僕をそう思っていないのは分かっていた。だから僕は、彼女が離れて行ってしまうのが恐くて、一心に話をしていたのかもしれない。
 彼女が興味を持つように。彼女が一緒に居てくれるように。

 ほら、今日、誕生日じゃない。

 彼女がそう言ったのは、確か高校受験の真っ只中にあった僕の誕生日だった。
 灰色のどんよりとした空にちらちらと雪が舞って、彼女の上に降り注いでいた。今でも忘れられない情景。
 それはとても幻想的で、なんだか、壊れてしまいそうだった。
 そんな彼女とは、卒業式の日に別れを告げることになってしまった。僕らは別々の高校になってしまったし、新しい生活に入っていく僕らにとってお互いが足枷になってしまうだろうと思ったからだ。だから、彼女がさよならと言ってくるだろう、という事は予測していた。予想が付いていた。
 それでも、僕は最後に彼女にすがったのだ。
 また、会おうよ。
 大きな桜の木の下で、僕は小さな木製のオルゴールを差し出しながら、それに似た言葉をかけた。
 忘れて欲しくなかった、忘れたくなんかなかった。
 それに何より、離れたくなかったのだ。
 それでも彼女は、多分僕の気持ちを知った上で、僕のことを振った。
 新しい生活に入っていけば、その波に飲まれることになる。そうなった時に、僕らがお互いを引っ張って、錘になって、そのまま沈み込んでしまう事を恐れたのだ。
 彼女の判断に、僕は反論するつもりはない。
 いやむしろ、その判断は正しかったのだろうと思う。あのまま引き摺っていたら多分、僕らはもっと、気分の悪い別れを経験しなければならなかっただろうから。

 それでも、少しだけ。
 淋しい、と思うことがある。

 この氷の花を見る度に。否応なく思い出される彼女の笑顔を見る度に。彼女の優しさに触れる度に。彼女が居た、あの情景に立ち戻る度に。
 僕は少しだけ、淋しいと思う。
 今はもう、大切な思い出。春が巡って来ても決して溶ける事はない、貴重な思い出となってしまったけれど。

 それでも僕は。
 二人の思いが、溶けて消えなければよかった思う。

 何度春が巡ってもずっと咲き誇っている、

 この、氷の花のように。



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