日常と非日常の間(4)  



「あぁうう」

 自分の部屋に戻ってベッドの上に座り込み、ちびを腕に抱いたまま小さく呻く。
「リク君、困ってたよね。私、嫌われないかな」
 呟いてごろりとベッドにひっくり返って、天井を見上げる。

 彼は覚えているのだろうか。
 多分、覚えていないだろう。
 だって、あの時彼はすごく、普通だった。別に何ら特別な思いもなかったはずだ。
 だから、分かっていない。それは構わない。
 けど、ちょっとだけ覚えていて欲しいな、と思う。私にとって特別なあの時が、彼にとっても特別であって欲しいと思うのだ。

 ちびを手放して、左腕を自分の目の上に乗せた。
 腕にあった暖かい感触が、動いて、ユフィの顔のすぐ近くにやって来る。少し動いた後、丸くなって眠ったのだろうか、動きが止まった。
 顔に乗せた腕にあたっている部分が、とても暖かく感じた。


 あの日、私はいつものように人の余りやって来ない学校のバルコニーに出て、うずくまっていた。

 学校は嫌いだった。

 私の家は弟が継ぐ。
 そのことは、彼が生まれた瞬間に決まっていたことだ。だから、家は私に何も求めていなかった。
 それ故に、私は分からなかったのだ。何のためにそこに行くのか。何のために私はそこへやられているのかが。

 友人と話すことは嫌いじゃない。
 一緒に馬鹿みたいなことで盛り上がって、楽しく時を過ごす。それだけでいいじゃないか、と思ったこともあった。
 でも、一心に学び、親に求められた成果を出そうとしている弟をみると、胸が痛んだ。
 どうしようもないのに。私が何か出来るわけでもないのに。

 学校は嫌いだった。

 そこへいくと、どうしても私は迷ってしまうのだ。
 私は役に立たない、何も期待されていない、何もない。
 私には、何もない。
 そう思わされてしまうのだ。
 学校にも何もなかった。そう思うときがあった。
 何もない。
 私と同じ。どうしようもないぐらい、空虚なところ。
 そういった思いは、周期的にやって来た。
 辛くて辛くて、仕方がなくなる。友人と話していることも出来なくなってきて、私はそこから逃げ出すのだ。誰もいないところ。
 そういったところを探して私は教室を出る。

 あの日もそうだった。

 急に、辛くて辛くて仕方がなくなって。
 私は逃げるように、そこへと出たのだった。
 バルコニーのようなそこは、教室から離れているせいもあるのだろう、あまり学生には人気がないらしく、私はいつもそこを逃げ場所としていた。いつも誰もいなくて、誰かがやってくることもない。
 静かで何もない、そんな空間だったから、彼が来た時、私はとても驚いたのだ。

「君……何やってるの?」

 がらりと引き戸が開いて、驚いて振り返った私を見下ろして、彼は声を掛けてきたのだ。
 絶対に誰もやってこないと思っていた。だから、咄嗟に答えることもできなくて、私はぽかんとした顔をして彼を見上げたのだ。

「……別に、答える気がないならいいけど」

 ただ自分のことを見上げてくるだけの私に嫌気がさしたのか、彼は少しだけ眉を顰めながらそう言って、私の脇を通りバルコニーの端へと行った。
 そこに座り込んで、肘を突いて詰まらなそうに外を見る。

 彼の事は、前から知っていた。
 というか、知らない人間の方が少ないんじゃないかと思えるほどに有名だった。

 貴族でも有力な商人の家系でもない人で学校に通っている人はまず目立つし、その中でもほとんど毎回のテストでトップを取っていたら当然だ。
 顔もそんな悪いわけでもないし、ぱっと見た感じはがり勉タイプというわけでもない。運動で目立つ事は少ないが、それでも、女子の間では結構な人気になっている。

「あの、リク君」
「何?」
「貴方は……何やってるの?」
 聞かれて、彼はちらりとこちらを見た後再び外を見て。
「逃げてる」
「は?」
「逃げてる。隠れてる。どっちでもいいけどね」

 言いながら壁に背を預けて、ぼんやりと空を見上げるようにする。
 小さくため息を吐いて、だってさ、と言葉を発した。

「毎回追っかけてくるんだよ? 俺、興味ないからって何回も言ってるのに」
「……えと、誰の話?」
「忘れた。話したこともなかったし」

 彼が言っているのが、告白してきた女子生徒の一人だという事は直ぐに分かった。

 さすが人気があるだけあって、良く告白される事はあるらしいのだ。
 しかし、誰とも付き合ったことがない、というのも有名なことだ。それで余計に、女子の噂の的になっている事を、彼は分かっていないのだろうか。

「それで、君はなんでここにいるの……えと、ごめん、名前わかんないや」

 ひどく申し訳無さそうに言われて、思わず笑みを浮かべた。
 彼に対しては、ずっと冷たいイメージを持っていたから、なんとなく、親近感が湧いたのかもしれない。

「ユフィ、よ。クラスは違うけど、学年は同じ」
「そう、なんだ」

 小さな声で答えて、それで、と再び聞いてくる。

「……何で聞くの?」

 彼には多分、分からない。
 答えたくもない。
 そう思いながら聞き返すと、彼は少し迷った後に、そうだなぁ、と声を上げた。

「泣いてたから、かな」
「……私、泣いてないよ?」
「知ってる」
「矛盾してるよ」
「ああ、そうだろうね」
「……リク君って、変わってるね」
「……それは、否定したいな」
 苦笑しながら言って、彼は膝の上に肘を付き、苦笑するようなその顔のまま、私のことを見返してきた。

「俺は、別に何があったのかとか聞くつもりはないよ。でも、そうだな、笑えば?」

 何を言ってるんだろう、と思った。
 多分、それが表情に出てしまったのだろう。彼は、少し困ったよな顔をして、いや、と呟く。考えるような顔をしながら頬をかいて、これさ、と言葉を続けた。

「これ、兄貴の口癖なんだ」
「お兄さん?」
「そう。全然似てないけど」

 言いながら、体育すわりをしている膝の間に顎を乗せて、再び外を見る。

「昔っから良く言ってたんだ。笑えって。笑えば良い事あるからって。馬鹿みたいな、おまじないみたいなもんだけどさ。実際、そんな効き目があるようなもんでもないし。それでも、ただ黙って俯いて、泣いているよりはよっぽどマシだよ。なんか、やる気出て来るしさ」

 どこか遠くを見てるな、と思った。
 何となくその視線を追っていって、青い空にぶつかる。
 それで、初めて気が付いた。

 今日は、眩しいほどに綺麗な空だった。


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