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ま ち 人
人ごみから外れた木陰にあるベンチ、そこが待ち合わせ場所だった。
最初にその場所を聞いた時にそんなところで待ち合わせするのかよ、と思ったのだが、何回かしてみると、ほとんどの人が集まるある銅像の元よりは、よほどこちらの方が分かりやすいことが分かった。周りの人ごみを眺めながら、涼しい木陰の元で人を待つその姿は、別に誰の気を引くようなこともない。
そのことがむしろ気分を良くしてくれて、いつの間にかその待ち合わせの時間帯が好きになっていたのだ。
だからいつもと同じように待ち合わせの時間よりも早めに来て座り、いつもと同じようにぼんやりとしていた時、その人が人の流れから押し出されるようにしてやってきたのを見て、驚いた。
その一つにはもちろん、他の人がこのベンチに座ろうとやってくることは今までなかったという事がある。そしてもう一つには、若者の町と呼ばれているこの町にそぐわない老人が、その細い体をゆったりと動かしながらやって来たからだ。
驚いたままその様子を見ていると、じっと見られていることに気がついたからか、その老人は柔和な笑みを浮かべてこちらに近づいて聞て、
「お隣、いいですか?」
と聞いてきたので、慌てて頷き、老人が座れるような空間を空けた。
老人はありがとう、と何度か頭を下げながら、その空間に腰を下ろし、疲れたようにほうと息をつく。
葉の間から零れ落ちた光が老人の上に降り注ぎ、人ごみを抜けてやってきた風が、短めで柔らかい白い髪をそっと空中になびかせた。柔らかく垂れ下がった目じりがあり、何を考えているのかよく分からないものの、暖かで、全てを享受し得るような広さをもった、黒く光る瞳がじっと人ごみを眺めている。
人のよさそうな老人だと、そう思えた。
一体、どうしてこんな所にいるのだろうか。ぼんやりとその老人を眺めながら考えていると、老人がふと顔を上げて、
「あなたは……」
と声を発した。
細い目を向けて見詰めてくる様子は、本当に人のよさそうな雰囲気を醸し出している。興味深そうな様子でも出してしまったのだろうか、少し不思議そうに見詰めてくる老人は、再び、あなたは、と声を発した。
「誰か、待っているのですか?」
興味でもなく、知りたいわけでもなく、唯聞いているとでも言えば良いのか、そういった雰囲気で尋ねてくる老人に、戸惑いながらも頷いてみせる。
もしかすると、暖かく、そしてすぐに壊れてしまいそうなその声に、促されたのかもしれない。
「――友人です。いつも、ここで待ち合わせを……」
そう言って、あなたは、というように首を傾げて見せると、老人はしわの寄った顔を綻ばせて、私もです、と言ってきた。
「私も、人を待っているのです……」
微笑みながら言い、その細い瞳を晴れ渡った空に向ける。
それに釣られるようにして見上げた空は、夏の暑さを残す太陽が輝いて、いくつかの白い綿雲が中に漂っていた。しかし都会の中にあるせいで、高いビルに切り取られたかのように存在しており、こじんまりとした、そして異様なほどに謙虚なものに見える。
「孫がね、」
ポツリと小さな声で呟かれた声は、すぐにでも雑踏の中に消えていきそうなものだったが、不思議なことに、その小さくはかない声は、はっきりとした重みを持って届いてきた。
そのことに驚いて老人を見ると、老人はその口元に柔らかな笑みを湛えたまま、
「孫が、会ってくれるっていうんですよ」
と言葉を続けた。
そういわれてもなんとも答えることが出来ず、はあ、と小さな声で返事をする。しかし老人はそんなことは気にしていないらしく、楽しいことを思い出すかのようにすっと目を細め、空を見詰めた。
「娘を怒らせてしまってね……。ずっと会わせてもらえなくてねぇ」
そう続けると、哀しそうに目を伏せ、私が悪いんですけどね、と呟いた。
そのまま話を聞き流してしまうのも悪い気がして、はあ、と呟き、
「えっと、どうしたんですか……?」
話を促した。
そういわれるとは思っていなかったのだろう、老人は驚いた顔をしてこちらを見、しかし直ぐに苦笑いをして、ええ、と話を続ける。
「まあ、たいした事じゃないんですよ。ちょっとしたことで孫を叱りまして、それが娘の気に触ったらしいんですね……。それでまた私も憤ってしまいまして。その結果の仲違いで、娘が出て行ってしまい……。今だったら多分、私が悪かった、と言えるようなそんなことだったのですが、そんな事で、孫にも娘にも会えなくなってしまったんですよ……」
「……はあ……」
あいまいな返事に老人は苦笑し、しかし温かみのある笑顔で話を続ける。
「だけどね、その孫が……、もう中学生も終わりになるのかな、会ってくれるって電話をしてきたんですよ。親に内緒だから、そんなに長くは合えないけどって」
どうして私のことを知ったのか、会おうと思ったのかは分かりませんけど、と続けた表情は少々淋しそうではあったが、切り取られた青空を眺める瞳には、迷いがないようだ。純粋に、孫に会えるのを楽しみにしている。
母親から話を聞いて、電話番号を勝手に調べたのだろうかと、見たこともない老人の孫の姿を想像した。老人と同じように黒い瞳が若々しい顔の中に輝いて、彼が若かった時にそうしていたであろう、暖かい笑みを浮かべる。もしかすると、老人に会おうと思ったのは単なる好奇心なのかもしれない。様々なことに立ち向かおうとする元気の良さが体中から満ち溢れ、あちこちを飛び回る鳥のような身軽さを持ち合わせているのかも。
そんなことを考えていると、老人はふっとその表情を歪めて、けどねえ、と呟いた。
「けどね、約束の時はとうに過ぎているのに、来てくれないんですよね……」
哀しそうに呟くものの、そこに浮かんでいるのは、あくまでも心配そうな色。どこまでも人のよさそうな、表情。
「……こちらからは連絡が取れませんし、事故にでも遭ったんじゃないかと心配で……」
老人の言葉を聞いて、しかし、と首を捻る。
この老人がここに来てからさして時間が経っているわけでもない。約束の時間よりも少し遅く着いたのだと仮定しても、多くて十分、十五分ほどか。遅いと感じて、少しいらいらとし始める時間ではあるが、この老人のように心配するほどのことでもあるまい。
そう思ったことが少しでも表に表れたのか、老人はああ、と声を上げて、今日じゃないんですよ、と言葉を発した。
一瞬何のことか分からなかったが、すぐに約束の時のことだと結びつける。
「半月、ももう過ぎましたかね……。孫との約束の日を過ぎてからも、毎日この時間にはここに来て待ってるんです……」
「……――。」
半月前、と言えばある電車で大きな事故が起こってしまった辺りだ。ずっと来ないことを考えれば、その日のその時間にかぶってしまった可能性もある。
そう思って老人に声を掛けようとすると、老人は急ににっこりと笑って、ほら、と前方をゆびさした。
その先を辿って行くと、待ち合わせをしていた友人が、こちらに向かって、一直線に走ってくるのが見える。他の人の流れと違っているからこそ、老人はその友人を指差すことが出来たのだろう。
「よかったですね。あなたの待ち人でしょう?」
全てを許容する、温かな笑顔でそう言われれば、ええ、と頷く以外に道はなかった。
「ええ、あれが友人です」
そう答えて立ち上がり、「お話、ありがとうございました」と言う。
どうも変な言葉かとも思ったが、それ以外に言うことを思いつけなかった。しかし老人は特に気にしなかったらしく、いいえ、とその笑顔で返事をした。
それじゃあ、と頭を下げて行こうとして、一瞬だけ迷い、再び老人の方を見る。老人は不思議そうな顔をして、こちらを見上げてきた。
風が木々に話しかけるように優しくそよぎ、老人の元にちらちらとした木陰をもたらす。
表情は、ほとんど分からない。
暑い日差しの中、未だ初春のような様子がその木陰の中にはあった。
「お孫さん、早く来られると良いですね」
そう言うと、老人はゆっくりと微笑みを浮かべて、ええ、と優しく頷いた。それを見て、ようやく老人に背を向けて、友人の下へと駆け寄る。
いつもと同じように友人に遅いと言い、いつもと同じ会話を繰り返しながら、後ろの木陰に座る老人を、一瞬だけ振り返った。
人ごみが壁になってもうその姿を見ることはできないが、老人がずっと、その木陰の元でぼんやりと、暖かな笑みを浮かべながらぼんやりと、孫を待っている姿を思い浮かべる。
その姿はずっと、私の知る限り永遠に、そこに居座り続けるのだろうと、そう思えた。
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