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電 車
僕は、空の電車に乗り込んだ。
寒い冬空の下ゆっくりと滑り込んできた電車に、僕はゆっくりと、しかしどこかせかせかと乗り込んだ。圧縮された空間の、生暖かい空気に包まれて、僕は空の電車に乗り込んだ。
中には、多くの人間が居た。朝のこの時間、多くの人間がこの箱に乗り込んで、どこか遠くの土地へと運ばれる。それはいつもの習慣。いつもの生活。どこか空虚な、いつもの姿。
人々に押され押し込まれた僕は、人の間に埋め込まれるようにして箱の中へと収まった。
アナウンスが鳴り響いて、空気の抜ける音と同時に空間が圧縮されていくのを感じる。外と箱の中身が分断されると、ざわめきがふっと静まっていき箱の中が暗くなった。
静寂だ。ざわめきの中の静寂。多くの人間が詰め込まれた、空の箱。
暑さを感じてマフラーを解き、狭い空間の中でバックを持ち直す。少し顔を上げるようにして周囲を見ると、ふと、右斜め前にいる女性の細い首が目に入った。
俯いているので顔は見えないが、勝手にその顔を想像する。細く白い首を視線で辿っていって、毛のたった小さな団子が目に入った。そして、その髪が邪魔なのか、首を左右に振ってそれを避けようとする男性の姿。背が高い為か、俯いた女性の髪が丁度、その男性の顔に当たっているのだった。
僕の目の前には黒いコート。サラリーマンの大きな背中がこちらにかなりの圧迫感を与えるので、僕は再び顔を動かす。左にいるのは茶色い髪の目立つ小太りの女性と、灰色のコートを着た中年男。学生らしき人の姿も、埋もれた人間の中から浮かんで見えた。
無感情なアナウンスが再び流れた後、箱が開いて何もなかった空間が膨らんだ。急激に静けさが破られて、人々が外に流れ出した。そして再び人が流れ込み、密度が更に増す。
真っ赤なマニキュアを塗った女が僕の目を引いた。携帯を取り出して弄っている彼女は、既にもう、この空間の中からは隔離されている。静寂で圧迫された共通の空間から、その電子的な外の空間へと繋がっているのだろう。それは、僕の直ぐ隣で本を読んでいる男性にも当てはまる。本という空間の中に身をおいて、新たな世界に入り込んでいるのだろう。
静かで何もない沈黙の、暗い時間。
動かず、騒がず、内側から崩壊する事のない時間。
空間の暑さに不快感を感じ、狭すぎる隙間に眉を顰める。
毎日新しい人と接触し、そして去っていく。
しかし、そう。
今僕がこの電車を降りてしまった途端に時間が動き、先程の空間が後に流されていってしまうと、皆はそれを忘れてしまうのだ。何人もの人と共有したはずのあの、不思議な空間を。白すぎる女性の項と、髪を避けようとした男性も。茶色い髪の女性にコートの男性に、まだ若い学生の姿も。赤すぎたマニキュアも、いつの間にか時間の流れの中で消えていく。
だからいつも、思うのだ。
空の電車だったと。
あそこには何もなかった。何も入っていなかった。誰かと会うことも接触する事も、何かを思うこともなかったのだ、と。
だから今日も、僕は空の電車に乗る。
直ぐに忘れる箱に入って。
空虚な時間を、過ごさんために。
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