袁さん   

 李徴兄さんのまだ幼い息子は、なるほど、兄さんに良く似ていた。賢そうな瞳でじっと自分のことを見て、すっと頭を下げたのはおそらく、今後自立するまでの面倒を僕が観ることになるのを悟ったからであろう。その様子がまた兄さんの姿に似ていて、なんだか苦しくなって、僕は視線をそらしたのだった。

「おーい、袁。どうした、ぼんやりしてるな」

 突然声をかけられて、袁は驚いて同期の友人のことを見返した。

 同期といっても、それは科挙に受かった年が同じだというだけのこと。年若くして科挙を通った袁にとって、また自分と尤も年の近かった李徴兄さんにとってほとんどの同期生は年嵩で、友人とは呼びにくかった。
 逆に言えば、年嵩の同期達にしてみれば、人当たりのいい袁は弟のように感じられるらしい。このように仕事がバラバラになってしまっても、袁を見つけると声をかけてくれる同期の方が、多かった。

「そうですか、……すいません」
「いや、いいさ」

 軽く頭を下げて謝ると、彼は手を振りながら答えて、心配そうに袁のことを見返してきた。

「最近、ずっとその調子だな……李徴が、死んでから」
「そう思われます?」
「ああ。大丈夫か」
「……ええ、少し疲れただけです。大丈夫ですよ。ご心配をかけて、申し訳ありません」
「……それは、いいんだが」

 彼の戸惑ったような返答に微笑み答えて、軽く頭を下げて背を向ける。後ろで彼が何か言ったようだったが、それは耳に入らなかった。
 何故なら僕の頭の中では、あの時の……虎になった兄さんの、最後の咆哮がずっと、鳴り響いていたのだから。

 僕が初めて兄さんを知ったのは、科挙の結果発表の時。
 最年少の合格者は僕だったのだけれど、トップの成績で通過したのが兄さんだったのだ。

「あれがトップの李徴だってよ」

 そう言って教えてくれたのは、同郷の先輩で、指差されたその先に、李徴兄さんがいた。何かを睨み付ける様な目つきで、まっすぐ前を見ている、その姿が非常に印象的だった。

 そんな彼を気にはしていながらも、僕が李徴兄さんと話すことはなかった。同期と言っても、みな、適正検査によってばらばらの職に付けられるのだ。同期会でもなければ、皆に会うチャンスは、そうそうなかった。そしてその同期会でも、李徴兄さんは、いつも鬱々として誰かと喋ろうとはせず、遠くから皆の話を黙って聞いているだけだった。

「何で君は、ああやって話していられるんだ」

 不思議そうな顔をして李徴兄さんが話しかけてきたのは、ある同期会の翌日のこと。
 一瞬誰に向って話しているのかが理解できなかったのだが、彼はそれを勘違いして取ったのか、昨日の同期会のことだ、と言葉を続けた。

「君なら、あの程度の議論、すぐに結論を出せるだろう」

 聞かれて、ああ、と小さく呟く。同期会で話題になった、対遊牧民政策のことを言っているのだろう。

「いえ、そのようなことは……」
「何故言わなかった」

 繰り返し問われて、ため息をつく。

「……みんなの、心象を悪くしたくないだけです。やって行きにくくなる」

 小さな声で答えれば、彼は、そんなのおかしいだろう、と声を出した。不思議そうに目を瞬かせて、おかしい、と繰り返す。

「あそこで政策案を幾つ出そうと、それは君の才能だ。それを、抑える必要が、どこにある」
「僕は弱いから、一人ではやっていけない。それだけです」

 そう、僕は弱い。
 他の人の反応を見て、どんなことを言えばいいのか、求められているのか、それをまず考えてしまう。周りに敵を作ることが出来ない。
 おそらく、敵を作ってでも国のために働けるのが一番いいのだろうけれど、僕には、それができないのだ。
 だから……

 俯いた僕を見て、彼はふぅんと一つ呟いた。そして、どう考えたんだ、と問うてくる。
 不思議に思って顔を上げると、李徴兄さんは笑みを浮かべて……多分他の人が見たら馬鹿にしていると思われるような、自信に溢れた笑みを浮かべて、遊牧民対策さ、と言葉を続けた。
 驚いて兄さんを見てから、僕は慌てて言葉を紡いだ。
 あの時考えた、そして前から考えていた対策。こうあるべきだと思う、北方との外交。そして、諸国をいかにまとめていくか……そういったことを夢中で話す僕の言葉を、兄さんは軽く頷きながら、真剣な顔で聞いていた。
 時々鋭く突っ込まれ、僕はその点をまた考え、改正し、話した。
 どれぐらい夢中になって話したかはわからない。けれど、気が付いたら、休憩時間の終わりを告げる鐘が鳴っていた。

「面白い」

 と李徴兄さんは笑った。そして、言ったのだ。

「袁さん、また今度話そう」と。

 僕は驚き、そして喜んだ。
 あの気難しく頭脳明晰な李徴に認められたんだと、そう思ったからだ。そして何より、自身の才を、考えを、余すところなく喋り、議論することが出来たことを喜んだ。
 こうして僕らは、よく話すようになった。


「兄さんは、よく詩を詠みますね」

 ある日の午後、兄さんがふと詠んだ詩に耳を傾けてそういうと、彼は軽く笑みを浮かべて、ああ、と頷いた。

「好きだからな」
「僕も好きですけど、兄さんほどじゃないですよ。それで、身を立てようと思ってます?」

 ふざけ半分で聞くと、兄さんは意外にもまじめな表情をして、そうしたいな、と呟いた。

「袁、君は、俺にできると思うか?」

 聞かれて、うーん、と小さく唸る。
 兄さんの実力は知っている。そして、兄さんが嘘を嫌いなことも、僕は良く知っていた。

「今のままでは、難しいと思います。兄さんの詩は綺麗です。韻も完璧で、非の打ち所がありません。でも……」
「でも?」
「何かが、足りないように思うんです」

 そう答えて、すいません、と頭を下げた。

「貶してる訳でも、馬鹿にしているわけでもないんです。ただ、」
「わかってる」

 僕の言葉を遮るようにして兄さんは答え、そうか、と小さな声で呟く。

「何か、足りないか」

 呟いた兄さんの声が、妙に頭に響いた。


 あの時の兄さんは、何を考えていたんだろう、と思う。
 虎になってまでも詩に執着した兄さん。
 足りなかった何かを、兄さんは虎になることで、得ることができた。
 逆にいうと、虎にならなければ、兄さんはそれを得られなかったということだ。


 兄さんが職を辞したのは、その数ヶ月後のこと。
 仕事に忙殺されていた僕は、風の噂でその話を聞いた。


 今でも思う。何故兄さんは、虎になってしまったのだろうと。
 そして、おそらく僕だったら虎にはならなかったであろう、と。


 あの時、俺が虎になったのは、尊大な羞恥心のせいだ、と兄さんは叢中から語った。妻子よりも詩に執着しながら、その才能の不足があらわにされるのを懼れた心。それが原因なのだ、と。
 確かに、兄さんは人との関わりを避けていた。何かを懼れるように、逃れるように。兄さんの無愛想さはそこから来ていた。他の人と関わらないようにすることは、一人で生きていくことが出来るということは、僕にとっては強さで、兄さんにとっては――弱さだったのだ。

 僕は、一人じゃいられなかった。
 だから、兄さんにあこがれたのだ。一人でいられる強さを、その才能を余すところなく発揮できる、その自尊心も。僕は自分に、自分の才能に自信がなかった。だから、他の人に合わせた。皆の様子を伺って、僕は皆に求めているであろう適度な態度と回答を出してきたのだ。
 皆の受けはよかった。同期のみならず、先輩方からも信頼されて、求められるだろう役割をこなしていくことで、僕の地位はどんどん上がっていった。兄さんが辞めてからもずっと、そうしてきた。それが悪かったとは、思っていない。周囲になじむことが出来なければ、追い出されてしまうことはわかっていたから。でも……

 それでも僕は、兄さんにあこがれたのだ。兄さんの孤独さに、高すぎる自尊心に。それさえあれば、僕は僕でいられるんじゃないかと、そう思ったからだ。

 ……けれども、多分、そうじゃなかったのだ。兄さんにとってみれば、その孤独は、望むべくして得たものではなかったのだ。高すぎる自尊心のせいで、兄さんは全てを失うことになったのだから。


 小さく、ため息をつく。

  手を組んで唸っている僕の目前には、一つの命令書があった。
 それは下からの要請を受けて回ってきたもので、僕の印一つあれば、実行されるもの。嶺南へ向う道中、商於の境。一匹の人喰い虎を、退治して欲しいというものだった。


 兄さんは今、後悔しているのだろうか。虎になったことを、あの高すぎる自尊心をステ切れなかったことを。
 後悔、しているだろう。

 崖の上で咆哮した兄さんの姿が、目前によみがえる。

 僕がここに印を捺せば、兄さんは死ぬことになる。
 完全に虎となった兄さんの人生を、終わらせることになる。
 それは、彼の苦しみを終わらせることになるのだろうか。
 勝手に哀れんでその生を終わらせることは、許されるのだろうか。


 僕は……――。



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