怪談を、始めます  

 いや、僕としては、こういう話って真夏の夜にでも言うべきなんだと思うんですけど……。え、いえいえ、別に話したくないわけじゃないですよ。ただ、なんていうか……。
 ちょうどね、この話の実際に起こった季節と重なっていて……。なんか薄気味悪いじゃないですか、こういうの。
 ……はい?あ、さっさと話せっていうんですか……。すいません、別に、わざと伸ばしてるわけじゃないんですよ。ただ、皆さんに危害が加わるんではないかと心配ナ……。
 手首を押さえてるのが気になるからやめろ?僕、落ち着かなくなると、こうする癖があるんですよ。しかも、押さえるのは絶対左手首で。……皆さん、そんな呆れた顔ばっかしないで下さい。分かっています、僕の番なんだから、しっかり話しますよ。
 僕、約束を破るようなことはしたくないので。


 先ず念頭において欲しいのは、これは僕の友人の友人に起こった出来事で、実際にあったということです。……ややこしいので、友人の友人をA、僕の友人をBとしましょうか。これは僕がBから聞いた話なんですけどね、AだけでなくBにも似たような不幸は降りかかっていまして。……ああ、これは後に話しますね。話には順番というものがありますから。
 記憶があいまいなので話が飛ぶのは勘弁してください。何しろ人伝いなもので。
 いつのことになるのか良く分からないのですけど、Aは怪談がすごい好きで、ある女性の自殺話を聞いた時も友人を誘って実際にその場所に行ってみたのだそうです。ええ。そう、もう何年も前になるでしょうね。それは、確かです。
 その女性は……まあCさんとしますが……彼女は何かつらいことがあって手首を切ったのだそうです。風呂場の中、赤い血の筋が渦を巻きながらお湯の中に吸い込まれていく……。Cさんは、これを眺めていたのでしょうか。血の筋を眺めて、これでは死ねないと実感したのでしょうか……。結局Cさんは、居間で首を吊って亡くなったそうです。
 それで、居間に移動する途中で……いや、僕はこんなこと本当はありえないだろうと思うのですが……手首が、取れたと、聞きました。こう、左の手首……多分傷つけられた所から、ぽろっと……。いや、ごろっとでも言ったほうが近いのでしょうか……。聞いただけで、僕の想像ですから、そんな、恐ろしそうな顔をしないで下さい。
 Cさんはその首吊りで死を迎えることは出来たそうですが……。当然ながら、警察の取調べやらなにやらはあったようですよ。彼女、いやだったでしょうね……。僕なら、そっとしておいて欲しいですから。
 …………。……あ、すいません、急に黙り込んじゃって。いえ、彼女がどういう気分だったのか考えていただけです。そう、彼女はこの取調べのあと、火葬される事になったそうです。その火葬の時……親族は気付かなかったのでしょうかね、彼女の左手が、足りなかったそうですよ。ええ、あの、取れた左手のことです。そしてそのまま彼女は埋められてしまって……。気の毒、ですよね。自分の一部が足りないまま、なんて。多分彼女も自分が足りたいのだという事実に不満なのでしょう。ずっと、その左手首を捜し続けて彷徨っているのだそうです。
 そんなCさんの話を聞いたAが、先ほども言った通りなのですが、彼女の自殺場所に行ってみたのだそうです。……え、あなたも行ってみる性格ですか?物好き……なんですね。……僕?僕はまあ、知っての通り臆病なもので……えぇ、行きませんよ。
 ……ああ、それでAがそこで見たもの、からでいいんですよね。Aが見たのは、未だにこびりついている血液の後……。赤黒く変色していたので、最初は、何か良く分からなかったと思います。きっと、近付いて見て初めて、それが左手首から滴り落ちた血の染みなのだと気がついたのでしょう。大きく染みになったその上に視線を上げて……。彼は、女性と目が合ったのだそうです。
 薄い黄色に濁った目で、彼女はAを見たそうです。Aは悲鳴を上げたと思ったそうですが……きっと、声は出ていなかったことでしょう。Aと一緒に行った人々はそこが特におかしな所だとは感じてなかったそうですよ。……血痕も、見なかったそうです。
 彼女の視線から逃れるようにして……Aは、首に巻かれ、天井の梁にまで続いている縄に気がついたそうです。彼女の白い首には、きっと、荒縄の擦れた後が毒々しい赤色となって現れていたことでしょう。さらに視線をおろし、彼の目線が、あの、手首に来た時です。ポタポタと血の滴る手首から彼が目を離せないでいると、彼女の声が、したそうです……。
「……わた……し……の……」
 ……ねっとりと絡み付いてくるような、低い声で……。
「手、返、……して……」
 彼女の湿った声が耳の中で疼き、Aは頭の中が真っ白になり……。
「……それ、は……わた……し、の……手…………ですか……?」
 そのまま、気を失ったそうです。
 それで、彼が目を覚ました時なのですが。友人に運んでもらったようで、彼の部屋にいたそうです。友人はすでに帰ったようで、彼の目に映ったのはいつもと同じ、白い無機質な壁でした。彼は起き上がって、ゆっくりと辺りを見回したそうです。何が起こったのかが良く分からなくて、それを理解しようとしていたそうです。
 ようやく理解して、彼は小さく首を振り、立ち上がりました。あんなものは夢だ、夢に違いない。顔でも洗ってすっきりしようと、彼は洗面台に向かったそうです。
 蛇口をひねり、冷たい水に手を浸すと、意識がはっきりとしていくのを感じたそうです。しばらくの間、手を水に浸してから、彼は顔を洗いました。顔を上げてぼんやりと鏡を見つめて。
 彼は……誰かと視線が合うのを感じたそうです……。ぞわりと背筋が寒くなるのを感じ、その誰かの視線を避けて、彼は俯きました。……そして……剃刀に……視線が、釘付けに、なったそうです。鋭利な刃が光を反射して……彼は、それを不思議なものでも見るように見つめました。
 ……それは本当に、彼を惹きつけました。今まで何気なく使っていたはずのものなのに、何か、意思を持ったように感じて……伸びかけた手に気付き、彼は慌てて手を引っ込めたそうです。……伸ばしていた右手で左手首を握り、彼は未だに流れ続ける水を見るともなしに眺めていました。そして。
 ……ぷつり、と何かの切れる音。右手が温かいものを感じ、ぽとり……と血が、水に混じって流れていきました。何が起こったのかと右手を離し……いつの間にか赤く染まった右手の平を見つめ……彼は、左手首の傷口が広がっていくのを見ました。右手を離したと同時に、落ちていく血の量が増え、渦巻く赤い筋が太くなるのを彼は見たことでしょう。
「ぅ……ぅわぁぁぁあああああっっっ」
 知らぬ間に声が上がり、傷口を押さえるように握り締める。ようやく左手首からしびれるような痛みを感じ、彼は、傷口がさらに大きく広がっているのを感じ取りました。
 …………もしも、彼の声に誰も気がつかなかったら、誰も彼の部屋に入ってこなかったら……彼は本当に左手をなくしていたかもしれません。幸い、隣に住む男性がその声に気付き、その異常な事態に救急車を呼びつけたそうです。それからは傷口は広がることも無く……えぇ。そうでしょうね。彼が感じたのは……Cさんの視線に間違いがないでしょう。
 Aについてはここまでですが……Aから直接話を聞いたのが、僕の友人であるBなのです。……AとBは昔からの親友どうしで、よく話をしていたそうです……。そして、この話を聞いたBは……。
 …………え、ああ、そうです。ここからが、Bの体験談になりますね。
 左手を負傷し不自由そうなAを見舞い、そこで彼は、先ほどの話を聞いたそうです。その話をした時のAの声は震え、何かに怯えるように視線を走らせていたと聞きました。
 ……Bは、元々怪談を信じない性質で……Aの話を聞くともなしに聞いていたのだそうです。……なんでも、意識の混濁だと思ったのだそうで。彼はAを落ち着けるように何度も大丈夫だと言い聞かせ……家に帰りました。
 家に帰り着き、久々の夏の暑さに彼は小さくとため息をつきました。暑さは苦手な彼のこと、すぐさま窓が閉まっていることを確認し、クーラーをつけたそうです。……身体に悪いから、少しぐらいなら扇風機で我慢しろと言っているのですが、どうも……。……え、すいません……。僕の愚痴を聞きに来たわけではない、もっともな意見です。
 知っての通り、クーラーを付けたからと言って、即座に部屋の中が涼しくなるはずはありません。彼は小さくため息をつき、新しく引き出しから服を出して風呂場に向かおうと思ったそうです。汗を洗い流すために。
 そうしてクーラーに背を向けた瞬間……ぞわり、と寒気を感じました。クーラーの冷気が直接当たったのだろう……そう思い、彼はその部屋を後にしました。汗を流した後ぐらいには、まあ、この部屋も涼しくなっているだろうと思ったそうです。
 僕……彼の部屋には何度か行った事があるのですが、彼の家の廊下を通り風呂場の横を通る時……僕は未だにぞわっと背筋の寒くなるのを感じます。…………ええ、ここまで言えば分かるでしょうが。彼もそこで、負傷をしました。
 風呂場でシャワーを浴びながら……やはり彼も、不思議と剃刀が目に入ったそうです。……ああ、まだ言ってませんでしたか。彼女が手を切ったのは……手近にあったからでしょう、剃刀だったそうです……。
 そして、彼は不思議とその剃刀に見入りました。何か不思議なものが、彼を引き寄せているようで……。Aが感じたのと同じものだったのでしょう……。僕も、その気持ちは良く分かりますよ……。…………いえ、その話は後にしましょう。
 彼はそれを見つめ、手に取りました。何故それを手に取ろうと思ったのか、何を考えてそれを見ていたのかすら、彼には分からなかったそうです……。Aと同じだということに……彼は気がついてなかったのでしょうか……。
 知らぬ間に手足が動いていて、彼は、それが自分のものでないように感じたそうです。どこか遠く、深い思考の中で、自分は何をしているのだろうと思い……。気がついたら、それを左手首に当てようとしていたそうです。
 慌てて手からそれを払い落とし、むき出しになったその鋭利な刃は、彼の足を容易に傷つけました。湯に溶けて流れていく血を視界の端にとどめて、彼は剃刀を凝視していたそうです。その剃刀は勝手に動くことも無く……やはり傷つけようとしたのは、自分の意思であるようにも思えた……そう、彼は僕に言ってくれました。頭の中が急にさえてきた彼は、心持ち急いで、その場を後にしました。
 傷口を押さえることもせず、剃刀を拾うこともせず……彼は、風呂場から出て行ったそうです。何かの視線と背筋の寒さから、逃げるように……。
 部屋に戻り、傷口を押さえて……彼は、無意識のうちに手首があることを確認したと……苦笑していっていました。その割に、彼の顔はこわばっているような気がしましたが。
 ……やはり、あなた方も信じていませんか。……ええ、僕も聞いてすぐは信じられませんでしたよ。そんな、信じられるはずが無いじゃないですか。……だって、刃物も無いのに手首が切れたとか、それを聞いた友人も怪我をしたとか……。
 ……ありえるとおもいます?
 あるはず無いんですよ、現実をきちんと考えるならば。…………ねえ、そうでしょう?……けど、けれどですよ……、僕は、信じるしかなかったんですよ。
 ……ほら、この手首を見てください。僕がいつも時計をしている意味、分かったでしょう……?……僕も、この話を聞いた後、怪我をしたんですよ……。
 ただ、僕の場合は少し違うかもしれませんね……。僕は……なんとなく、自分からやってみようという気になったんですよ……。ええ、僕にも信じられないんです……、僕自身でこの傷をつけたことが……。
 ……Bから話を聞いて家に帰ったその日、彼らが怪我をしたのと同じように、むんむんと蒸し暑い日でした。だから、少し嫌な予感がしたのです。二人とも、その共通点に気がついていないようで……。……ええ、今日みたいな、うだるような暑さです。
 家に帰り、扇風機を回すと、家にたまっていた空気がようやく動き出したようで、僕は何故かホッとしました。しばらくの間その風に当たり、……ふと思いついて、風呂場へと移動しました。風呂場には重い湿気がドンと腰をすえており、一瞬だけ辟易はしました。しかし、僕はかまわずに中に入りました。……ああ、換気扇を回すということは、しませんでしたね。
 中に入り、キュッと音を立てて蛇口を回すと、壁を伝うようにして、シャワーからこぼれ出た水が下に流れ落ちていきました。近くにおいてある剃刀を取り上げて。剃刀の刃を手首に当ててみて、僕は……ようやくこれで本当に手首に傷が切れるのだろうと思えました。しかしながら、半分は……そう、こんな小さな刃で怪我などするはずがないと思っていまして。……訳も無く、鼓動が高まるのを感じました。今思えば、怖かったのでしょうが……。僕は、彼らが感じたようなぞわりとした寒気を感じることも無く、自ら、その剃刀の刃を手首に当てました。小さく右手が震えるのを見ながら横に引くと、ぷっくりと現れた血がぽとりと落ち、僕が流しておいた水に溶けて……。……きっと、彼女も、こういうのを見ていたんだろうなと……そう思いながら、僕は流れ落ちる血を眺めていました…………。……。
 …………いえ、なんか、寒気を感じまして。クーラーが効き過ぎているのでしょうか……。
 ……あ、続きですね。はい、僕はしばらく血を眺めた後、痺れを感じる手首を持って、止血をしました。……元々、死ぬ気なんてありませんでしたからね。ただ、やりたいと思っただけで……、いや、強迫観念……それの方が近いのかもしれません。なかなか血は止まってはくれませんでしたが……この通り、致命傷になるようなものでもありませんでしたし、ただ傷跡を残しただけでした。  ……僕の元に、彼女は来なかったのでしょうか…………。……いや、がっかりしているという訳ではないのですが……ただ、聞いてみたいのですよ。何故、自殺しようと思ったのか。彼女の見ていた世界と、僕の見た世界は一体どこが違っていたのか……。


 ……お嬢さん、どうしましたか……、顔色が悪いようですが……。…………え、すいません。あなたの名前が、出てこなくて……。
 ……え?そんなことはどうでも良いって……。しかし、そんなわけには……手首?
 手首って……あなたの、手首、がどうか……?
 ……え……?
 ……さがして……いるの、ですか……?



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