花、開くとき   

 人間って、何で出来ているのかな?


 ミカにそう聞かれて、知らないよと答えた時の事を、窓を開けて入り込んできた冷たく湿った朝の空気を浴びながら、トオルはぼんやりと思い出した。
 黒くさらさらと流れ落ちる髪を一つにまとめようとしながら、彼女は膨れ面を作り、少しは考えてみてよ、と促してきたのだ。それに思わず笑みをこぼし、トオルは、そうだな、と言いながら鏡の前に座る彼女の、左右反対のその顔を眺めた。
 窓から入った白い光が彼女のふくらかな頬を縁取り、白い項に残る後れ毛がその光を受けて朝露に濡れた葉の様に輝いて見える。
 彼女の白く細い指が、幾度もその細い髪を掻き上げるのを眺めながら、彼は再び、そうだなあと呟いた。


 そして……そして?


 トオルは、窓辺に両手をのせて窓の外へ身を乗り出しながら、考える。
 そして、僕はなんて言ったんだっけ。
 一瞬だけ考えたものの、トオルはその疑問を直ぐに頭から追い出して、部屋の中へと戻った。
 朝の冷たい空気と共に差し込んできた光は部屋の奥までは照らしてはくれないものだと、そう思いながら彼は部屋にある小さな電灯をつけて、部屋の奥へと入る。


 彼女のいる日常が壊れてから三年。
 彼女と住んでいた町中の家から離れて森の中に少し入った所に住まいを構えた彼は、時折やってくる友人以外とはほとんど会話もせずに、研究に打ち込んでいた。心配し、町へ降りて来ないか、何を研究しているんだ、と聞き続けるその友人に対して長い間罪悪感を覚えてきたものの、もう直ぐ終わるのだと言う安堵感と微かな虚無感と共に、彼は部屋の奥の暗がりへと視線を向ける。
 壁に右手を這わせてスイッチを探し明かりをつけると、白い蛍光灯の光に照らされて、『ミカ』が姿を現した。
 産毛の生えた柔らかな頬にあたった光が『彼女』の柔らかい曲線を描き出し、髪から滑り落ちた黒い髪に薄く反射する。微かに濡れた赤い唇はその光に輝き、人形の様に投げ出された手足がくっきりと、闇の中から浮かび上がっていた。
 トオルは、そんな『彼女』の生気の宿らないその瞳を見詰めて、おはよう、と小さな声で呟いた。そして、ぴくりとも反応しない『彼女』に、柔らかな、悲しみに沈んだ笑みを向ける。


 もうすぐ、だからね……。


 愛しい者に愛を囁くかの様な柔らかな声音で、彼は『彼女』に言った。
 それでも、その言葉に答える声はなく、彼は再び小さく微笑んだ。
 今は雪に埋もれ暖かな日の光を待つ蕾だけれど、もうすぐ、もうすぐその蕾は花を開かせる事になるだろう。
 蕾の上に降りかかった白い粉雪も冷たい水に変わり、その紅い花びらを縁取るかのように流れ、柔らかな風がその蕾を起こそうとするかのように優しく揺らす。


 そう、もうすぐ、なのだ。


 『彼女』が、花開く時は。



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