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ネ ダ ン
千鳥足というのは今の自分の状態のことを言うのだろうと、どこかさめた気持ちで考えながら、男はふらふらと歩いていた。
夜もこの時間になると、ぽつりぽつりと見える街灯以外、明りのついているところはない。
夜の冷たさが、頬を撫でていくのを感じる。酔いで頭がぼんやりする。
飲みすぎだと、そう怒鳴る妻の姿が見えたような気がして、軽く首を振った。ああまずいな、とぼんやり考えたが、何がまずいのか良く分からない。軽く頬を叩きふらふらと歩き続けて、ふと、前方に強い明りがあるのに気付いた。
こんな時間に、開いている店があったのか。
そんなことを思いながら、歩み寄る。段になった棚に、幾つもの色が並んでいた。明りの強さに思わず目を瞬かせて、ようやくそこに置かれたものの形が分かった。
のっそりと頭を上げて、なんとか看板の文字を読むと、なるほど、確かに果物屋と書いてある。
それにしても、今時、果物屋に果物屋と書くのか。おかしなものだ。
おおい、と店の奥に声を掛ける。
誰も居ないのだろうか。
外の棚に果物を出しているのに店番もないとは、無用心なことこの上ない。
喉が渇いてたまらなかった。
近くにおいてあった、桃を一つ手に取る。柔らかい感触がして、思っていた以上の重さが手に掛かった。甘い、誘うような臭いがする。
食べごろだと思った。
値段は書いていない。
そういえば、他の果物にも、値札は貼っていなかった。
すいません、と今一度店の奥に向かって声を掛けるが、自分の声が反響してくるだけだった。飲みすぎてしまったせいなのか、異常なほどの喉の渇きを感じて、再び手に持った桃に視線をやる。
みずみずしい桃が、これまでよりも甘い芳香を放っているかのような、そんな気がした。
不思議なことに、喉の渇きは耐え難いまでになっていた。
周囲に、人は居ない。
そもそも、店の人がいないのも、金を払うところがないのも、値札がないのも、自分のせいじゃない。それに自分は、こんなにも、信じられないほど、喉が渇いているのだ。ここでこの桃を食べようと思っても、それは何らおかしいことではない。
何か責められることがあるのだろうか。
身をひるがえ翻し、歩き出した。
しばらく歩いたところで、桃にかじりつく。甘い果汁が口いっぱいに広がり、焼け付くようだった渇きが一瞬にして取れていくのを感じた。うまい桃だ。まるで、食べられるのを待っていたかのような、そんな気持ちがするほどに、うまい。
夢中になって桃を食べきってから、手に付いた甘い汁も嘗め、満足して吐息を吐く。喉の渇きは全くなくなっていて、火照りぼんやりしていた頭もすっきりと冴え渡った。
気持ち悪いほどだった酔いも完全に冷めて、気分が良い。お気に入りの流行歌を口ずさみながら歩き出して、笑みを浮かべる。頭の中で渋面を作っていた妻も、恋人時代の楽しそうな笑顔を見せてくれていて、帰ってもそうやって迎えてくれれば良いのにとニヤニヤしながら呟いた。
かつん、と足音が響く。
暗い道を歩きながら、反響するその音を聞くのが好きだった。
ちかちかと電灯が瞬いているのが見える。
彼はゆっくりと歩きながらその音を聞いていたが、途中で別の足音がしているのに気が付いた。こんな時間に、自分以外にも歩いている人間が居たのか。そんなことを思いながら後方を振り返ってみる。
――誰も居ない。
思わず、眉をしかめる。やはり酔っているのか。
しっかりと、足音を聞いた気がしたのだが、気のせいだったのだろう。
首を捻りながら再び歩き始めて、再び、足音を聞いた。ついてくるのが分かる。足を速めると少ししてから後方の足音も早くなる。
振り返るが、誰もいない。反響とも違う。急いで角を曲がり、立ち止まって先ほどの道を覗き込む。
……分かってはいたが、誰も居ない。
やはり気のせいだ。
よく考えなくても自分は男なわけで、ストーカーなんかはいるわけないし、金がありそうにも見えない。安心して息を吐いて、闇が濃くなったように感じられる先の道へと戻ろうとして、
冷たい手が首筋に当たった。
思わず声を上げて振り返り、濡れた首筋を擦る。誰も居ない。上を見る。雫が落ちてくるようなものは、何もなかった。
近くに人の気配を感じる。闇が濃くなり、視界が狭まっていく。何かから離れるようにうしろ後に数歩下がり、踵を返して走り出す。何かがついてくる。振り払うように腕を振り回すが、離れない。むしろ、どんどん近付いて、来る。冷たい空気が触れて、絡みつく。強く足をつかまれて、その場に倒れた。振り向く。誰も居ない。伸ばされた手が、喉に触れた。首が絞まる。見えない、冷たい手を引き剥がそうとするが、出来ない。息がつまる。視界が歪み、暗くなって……――。
うとうとと、少し眠ってしまったらしい。
目が覚めると時計がかなり回ってしまっていて、夫はもう帰ってきたのかと慌てて立ち上がり……シンとした家の中、再び椅子に座った。
まだ、帰ってきていないのか。
ラップをかけたものの、既に冷めてしまった夕食。薄暗い電灯と、付けっぱなしだったテレビ。眠ってしまう前の状況とまったく変わっておらず、彼女は思わず、ため息を吐いた。
仕事の付き合いで遅くなってしまうことは、よくある。けれど、夫が帰ってくるのをただ待つ身である彼女としては、連絡の一つも入れてほしかった。
かたり、と玄関の方で音がした。
帰ってきた。
喜んで立ち上がり、いや、ここは一つ文句でも言ってやらないと、と怒った顔を作って玄関まで行く。遅い、どこ行ってたのと声を上げながら扉を開き……、目を瞬かせた。
――気のせいか。開いた扉の反対側を覗き込んでみても、当然のように誰も居なくて。早く帰ってきなさいよ、と誰にともなく呟きため息を吐いて視線を下げて、紙が一枚落ちているのに気が付く。
しゃがみ込んで拾い上げ、細い字を読んだ。
モモ一ツ。領収済。
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