01. 不可思議なる者  

 梅雨に突入した町のように生暖かい空気が充満し、また神経を病んだような白い壁が周りを取り囲む。
 圧迫するような、居心地の悪い部屋だと、ここに来た人々は言う。初めて言われた時には、そういうものなのか、と思った。確か最初にこの部屋に来たのは、大学の教室で一緒に講義を受けた者の一人だった気がする。名前は、忘れた。いや、そもそも名前を、その人間と言う動物をさらに小分けして唯縛り付けるだけの文字の羅列を、覚えていたのかすらも怪しいものだ。所詮は、同じ部屋にいただけの者。覚えていようがそうでなかろうが、いまとなっては全く関係はない。
 ともかく、人が居心地悪いと言うこの部屋は当然、俺にとっては居心地の良い所だ。妙に中身の抜けたような空間が広がっているようで、虚無感と緊迫感、全く正反対の物が常に感じられる不思議な部屋。入り口から左手にはずらりとでも表現できそうなぐらい、引き出しの取っ手が並んでいる。右側の壁には白いベッドと壁に同化してしまいそうなぐらい白い机。
 この部屋にあるのはそれぐらいで、後は上から下まで、窓もない、がらんどうな所だ。時間をかけてわざわざ探し出した、病室とも思える一室。このような部屋も、俺の性質を現しているものなのだろう。
 そう思いながら、持っていたペンをテーブルの上に置く。乾いた、そして案外大きな音が白い壁の部屋に反響した。
そして、もう一つの、俺の性質を表すものは、近頃資源の無駄だとしか思えないぐらいに売られている本の山だろう。狂ったような、狂っている、狂ったとしかいえない、そういった小説。実際、これは狂っている、おかしな小説だと幾度となく言われ、報道された。もしかしたらそれは当然の事、なのかも知れない。現実ではありえない、あってはいけない内容なのだから。
 しかし、だからこそ、その世界のカケラを求める人は、この文字の羅列に魅了される。取り入り、取り入れられ、出られなくなるのだ。それが多分、この狂った小説の中身もない本当。本当ですらありえない、事実。
 そして、それイコール、俺自身の姿でもあるわけだ。現実では存在してはいけなかったその意識が、普通に生活しているはずの、それでも微かな狂気を残した人を、魅了するのだろう。魅了されてはいけない、人から蔑まれるはずのもの。生まれもってなのかは知らないが、確かに昔からその感覚はあったように思える。それは多分、俺の文字の羅列に魅了された人も同じなのだ。
 ペンをずっと持ち続けたせいで軽く痺れ、熱を失った右手を左手を使って揉み解す。本が売れた御蔭で、仕事が増えてしまったのには困りものだ。今まで特に気にせず書いていた文章が仕事に取って代わり、オーバーワークが非常に増えた。編集者と打ち合わせをし、本の形にまで持っていく。その過程が、俺には面倒で仕方がないのだ。そして、編集者が俺に向ける視線も鬱陶しくて仕方がない。
 右手が熱を取り戻し、ようやく指の動きが元通りになる。ぴりぴりと痺れて消えていくこの感覚はまあ、嫌いではなかった。痺れの余韻を楽しんでから、部屋の静けさを楽しむように、そのまますっと自分の動きを止める。疲れが俺の動きをとどめるかのように、重みを増して体の奥へと沈殿していくのを感じた。
文字を書くというのは事実として発散できないその思考を、文章と言う物質に変換して吐き出す、俺にとってのストレス発散なのだろうと思う。だから、この疲れは嫌いじゃないし、むしろ歓迎できるものだ。時間の流れを忘れるように、その体勢のまま白い天井を見上げる。一種の神聖な行為なのでもあるかのように、毎回繰り返す行為の一つ。白さは俺の心を空虚な状態に持っていってくれる、そんな色。しかしそれは一方で、光のない、真っ黒に塗りつぶされた闇をも思い浮かべさせる。それは俺自身がおかしいから、なのかもしれないが。
 息を吐きながらまぶたを下ろすと、自身の心境を反映するかのように、暗闇が目の前に広がった。薄い黄色がかった光はまぶたを通らず、また微かに見えると予測された赤い点さえも見えることはない。俺には血が通っていないのだろうかと、無意味なことを考えさせるような闇。俺自身の、光に当たるもの。そして、俺自身の影に当たるもの。唯一、言葉として真に表現できていると考えうるもの。それでいて、全く何も表現し得ないもの。俺の闇に対する認識を簡単にまとめるなら、そんな物だろうか。ネタにもならないそんなことを考え、そして膨らます。まるで際限なく続く永遠の輪の様に、広大に広がる宇宙のように、思考は広がっていく。萎むことなく空へと浮かんでいった風船のように、尾を銜える蛇……世界蛇のように。
 俺の表現は分かりにくいだろうか。しかしながら、この思考の無限の広がりを表現するには、あまりに言葉には制約がありすぎると思う。俺のにとって唯一の逃げ口でありながら、また俺を縛り付ける物でもある言葉は、一体どういった存在なのかとも考えた。終わりのない、思考の繰り返し。無駄の多い、そして真実無駄でしかない考え。考えることによってしか成り立つことのできない俺と言う存在。疲れを感じているこの体が実際にあるものなのか、そうでないのか。そう考えながら、我思うゆえに我ありという、尊大に聞こえるように作り変えられたかのようなその言葉を思い出す。


 全く、無駄でしかない。


 俺自身の思考も、行動も、人々のする事を見ても、何もかもが無駄であるようにしか思えない。人を恨んで、人を殺す、『常識』を外れた行動すらも、俺の心をひきつけることはない。
 俺の興味のあることは、唯。何の為に俺は存在するのか。何の為に生きている。何の為に働き、金を手に入れ、空腹を満たし、あらゆる欲を満たしていくのか。有名な大学を卒業した偉大な教授殿も、どんな奴も、この疑問に答えることはできないだろう。いくら言葉を並べたとしても、それはあくまで主観的な考えであり、その個人の考えでしかない。客観的な立場に立ち、遠くから現状を眺め、考察し、そして出されるものが答えになる。そう、俺は考えるのだ。
 そしてそうであるならば、――これこそが永遠、無限というものか――、どんな奴も、この疑問に答えることはできないのだ。宗教的観念を持つならば、絶対的な存在である神や人々を見守る仏や精霊など、そういった存在が答えるべき疑問。倫理の一部、プラトンの部分を持ってくるならば、イデア界に還元してようやく理解するべき内容か。かといって今上げた二つの回答に納得するかと言えば、否としか答えられない。俺の思考の中に神は、精霊は、仏は、イデアは、全て存在しない。だからこそ、この疑問に答えることはできない。
 いつもと同じ道順を通りいつもと同じ結論にたどり着いたところで、ふっと思いつく。死んだとしたら、どうなるのかと。この意思は、俺が持っている自我とこの疑問は。答えは、見つかるのだろうかと考える。途方もない、それこそ答えの見つからない問答になりかけて、無理矢理に思考を停止させる。あまりこれに没頭しすぎると、知識的欲求の為に自殺しかねない、と思ったからだ。誰かを殺すことも自分を殺すことも、いくら『常軌を逸している』と言われていたとしても、俺にはできるはずのない相談である。
 どれだけ、死に魅了されていたとしても。
 ふうと息をつき、凝り固まったように疲れに支配された体を動かす。どうも、やたらと疲れる方向に思考を持っていってしまいがちだ。休憩をするつもりでこんなに疲れていたら、元も子もないだろうと思う。
 ぐっと現実味を増して、その存在感を取り戻した生暖かい空気が、再び俺の周りを支配してくる。そしてそれと同時に、俺の耳に音が聞こえた。赤ん坊の泣き声。もうこんな時間なのかと、机の上にある時計を見て思う。いつもと同じ時間に始まる夜泣き、それを止めようと俺は立ち上がった。


 ぐるり、と椅子を回して、俺は立ち上がった。


 そして、聳え立つように並んだ引き出しの前に立ち、そのうちの一つを開ける。中に入っていた赤ん坊を取り出して、俺は小さく笑った。他人を慈しむ笑み、自らを嘲る笑み、そして全てに疲れたような、笑み。全く異質の物を全て混ぜ合わせたような、そんな笑みを浮かべて、俺はその赤ん坊をあやした。体温を持たない、人形の赤ん坊を。消して泣き出すはずのない、その赤ん坊を。
 俺が狂っていることを具現化する、この赤ん坊を。
 昔不慮の事故で死んだ弟がこいつなのだ、と俺の中の誰かが囁いてくる。俺の弟が赤ん坊だった時に、そいつは死んだのだ。病気か、何かは覚えてないが、多分それが俺が狂った原因。死という、何人も理解できないその魅力に取り付かれ、そしてその存在に狂喜した俺は、きっとその瞬間から狂っていったのだ。
 机に戻り、俺は置いてあったけして子供向けではない本を手に取ると、一文ずつ、丁寧に読み上げていった。中身など、関係はない。ようは俺の中にあるこの幻聴をどうやって取り除くかの話。あくまで俺だけの、俺だけにしか関連のない話。
 だから、文章を読むことで意識をそちらへ持っていく。それによって、幻聴を頭の中から追い出すことにするのだ。
 毎晩恒例の、儀式。
 さあ、といつもと同じように俺は祈った。ありもしないと信じている、神に仏に精霊に、俺は祈った。
 さあ、この幻聴を早く取り除いてくれ、と。早くこの赤ん坊から開放してくれ。死の魅力が俺を、逃れられない様な強い力で引きずり込まないうちに。
 さあ、早く。そう、俺は願う。
 


 まもなく、朝が来てしまうから。



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