03. 囚われし者  

 あいつは変わった奴だった。大学時代、知り合ってすぐに思ったのはそのことだ。普通とは違う、不思議な感覚。違う空気。今まで見たこともない空気だった。
 何がどう違うのか。そう聞かれたところで僕には何とも答えようがない。ともかく、変わっているとだけ思った。むしろ、話していると、自分は変わっているとぼんやりした口調でも一生懸命に主張しているようにも思える。ともかく、変わった奴だとしか、僕にはいいようがない。そして、その空気は妙に居心地が悪く……それでいて人をとりこにしてしまうような不思議な空気だった。
 しかし、彼の本性とでもいうべきだろうか、その一端は大学でも見ることができた。大学で虫が殺されたことがある。それは蚊のように小さな虫で、どうもうるさいと、その時一緒に話していた友人に簡単に潰されてしまった。それぐらいの、他愛もない……話にすらならない話である。


 それが、彼でさえなければ。


 彼は、一瞬何故その虫が殺されたのかが分からないような顔をした。いや、僕には心優しい(様に見える、と僕にはその言い方しかできないのだが)彼の事なのだから、何故つぶされたのか疑問だったのだろう。そう思った。しかし、どうも彼の不思議そうな視線はそこには向いていなかった。更に先の、もっと違うところに向けられた視線なのだ。そう、気が付いた。しかし、所詮僕は彼とは違う。彼とは全くの異質の存在。だからこそ、僕には彼が、何を見て疑問に思っていたのかは分からなかったのだ。
 倫理の講義の後に、彼は良く物思いにふけっていた。講義の内容について、思いをはせているようにも、理解できずに悩んでいるようにも見える。実際、何を考えているのか一切分からないぐらいに、黒く深い瞳を、彼は持っているのだ。今でも、その瞳に彼の考えの一端も見ることはできない。


 何を考えてるのかよく分からない彼を連れて、食堂(倫理の講義の後は大抵、僕らの講義がないか昼時だった)へ行き窓際の席を取る。ぼんやりしている彼を座らせて、僕は窓の外を見るのだ。三人兄弟の長男である僕にとって、ぼんやりとした彼の面倒を見るのは大して苦痛ではなかった。むしろ、しっかりした性格の人とはうまく付き合えないタチらしく、そういった人とはしょっちゅう衝突していた。そんな時、ふんわりと他人事のように(今思えば、実際彼にとってはそうだったのだろう)笑って、のんびりと別の話題を持ち出す彼には救われていた。多分、向こうは全くそんな気はないのだろうが。
 ともかく、彼の復帰……倫理の後ぼんやりしている彼がしゃべりだす時を密かにそう呼んでいたのだが、それを待っている僕に、彼が思ったよりも早く話しかけてきたことがあった。早いな、もう復帰したのかと思って彼の方を見て、彼が遠くの方を見ている事に気がいて、違うのかと少しがっかりする。彼が何か別のことを考えているのか違うのか、それは彼の視線の先を見ればすぐに分かるのだ。たとえこちらを見ていたとしても、そこを通り越してどこか遠くを見ていたりする時、彼は復帰していない、それだけだった。
「何で、分かるんだろう」
 何がだろう、と思った。彼が自分の世界で考えながら話す時は殆ど独り言に近く、支離滅裂なことも多かった。だから、僕は返事もせずにそのまま、肘を付いて彼の事を見ていた。
「生きる意味……存在……ない」
 ぼそぼそとした口調で、そういった。何を言っているのか良く分からなかった為、その時はなんとも返事のしようがなかった。


 彼は生きる意味や人間とは何かや、死、生とは何かという事について、人一倍敏感に反応した。その反応はあくまで疑問であり、逆に言えばそれ以外の何者でもない。例えるなら、映画の中で死にかけの病人に「死ぬな、死んじゃダメだっ」と一生懸命話しかける主人公に、疑問と困惑のまなざしを向けているような物。いや、彼なら例えなくても実際にそうするだろう。多分、生きているという不思議さと死んでいくという自然に疑問を持たずに生きる人々に、それ自体に疑問のまなざしを向けているような気がする。僕なら当然で流してしまうようなことに、困惑のまなざしを向けている。そういった、感じだった。
 実際始めのうち、僕はそういった『人種』は彼だけなのだろうと思っていた。いや、思い込んでいたといったほうが正しい。こんな人は他に見たこと無かったし、大学に入って初めて会う『人種』なのだ。これまでも今でも、僕の交友関係は比較的広いのだと皆に認められている。それで、今まであったことのなかった『人種』。絶対に他に居るはずがない、そう確信していた。


 彼女を見たのは、図書室の前で彼と待ち合わせをしていた時だった。
 いつも通り彼の講義が先に終わった時。その後毎日二人で図書室によるのだが、今思うと彼にとってはその図書室もどうでも良かったのだろう。毎日、ぼんやりとどこかを見ていたのだから、僕に付き合ってくれていたのが奇蹟だったのだと思う。図書室も僕のことも、彼にとってはどうでも良い事なのだから。ともかく、彼はいつも図書室前にある小さな中庭に行き、そこにある木製のベンチに座っていた。そしていつもと同じように、俯いてじっと地面を眺めているようだった。彼は、いつもそうして目に付く物を見ていたのだ。そして、何も関係のないものを考えていた。どこか部屋の中では白い天井を見上げ、外では真っ黒な土を見つめているのだ。一度どうしてか、と聞いたことがある。彼は一瞬だけ考えてよく分からない、とだけ答えた。何を考えているかよく分からない瞳で、特に考えたこともない、良く分からないよ、と答えたのだ。
 あの日も、いつもと同じく図書室の前のその中庭で、彼は俯いて座っていた。木々の間から見えた彼の視線の先に、蝶が少しだけ羽をはためかせているのが見える。陰に居るからなのか、黒い死神のような蝶だと僕は思った。その死神を観察する、一人の男。それが、僕が歩きながら見た光景だった。少し足を速めて、彼の世界にまで行き着こうとする。道を曲がってその広場に入ろうとして、彼の世界を眺めている人がいるのに気が付いた。肩よりも長いらしい黒い髪が風に揺れて、しかしそれが気にならないかのように彼の事をじっと見ている。彼と同じような黒い瞳は、何を考えているか分からず……。同じだ、と思った。彼と同じ。


 かれとおなじくうき。

 彼女は彼と同じ空気を纏いながらも、彼の世界に引き寄せられているようだった。多分、似ていても少しは違うのだろう、と思う。僕にその違いは良く分からなかったのだが。
 彼女を見た途端に止めてしまった足を、一歩踏み出す。それと同時に彼女は止まっていた時の流れを思い出したかのように、慌てて図書室へと歩いていった。彼女に従って、長く黒い髪が流れ、溶けていくのが見えた。


 それからだった。彼女が僕たちに話しかけるようになったのは。確か、偶然(多分、彼女が自分から近づいてきたのだろうが)講義で隣の席になり、他愛もない話をしたのだ。彼女は彼に対しても当然のように話しかけてはいたのだが、彼もまたそれが当然のように自分の世界に浸かりきっていた。
 痩身で美しい彼女は良く男の口には上っていたから、僕はすぐにその人の名前は知ることはできた。そしてそれと同時に、彼と同じ空気を持っているからなのか、彼女独特の空気になのか、心惹かれるのも感じていたのだ。しかし、彼女の関心が彼にしか向けられていない事はすぐに分かった。黒い瞳は檻に入った実験動物を眺める学者のように、冷たい、観察の色しか見せていない。それは彼が全ての人に向ける目であり、彼女が彼に向けている視線であった。僕には興味がない様な中身のない視線しか向けてはくれず、それは彼女の『友達』に対してもだった。
 一応、彼女の場合は彼と違って、それを隠そうとはしているようだった。芸能人や歌手の話をして盛り上がったり、淡い緑色の明るい服を着ていたり。彼ならば絶対にすることのない言動ばかりが目に付いた。それ故に、僕は自分の目をしょっちゅう疑わざる得なかった。
 疑い、彼女の目を確認して、更なる確信を持つ。
 彼女は、彼と同じだ。そう、思う。しかし僕が大学に居る時には、彼らの違いというのは殆ど分からなかった。限りなく近く見えるのに、時々全く異質の物にも見えたからだ。
 だから、大学を卒業してしばらく、僕は彼の本を使って実験することにしたのだ。全くの偶然に見えて、必然であるようなその本の出版に僕が狂喜したのは、一体誰が知っているのであろうか。


 大学を卒業してすぐ、彼は実家を出て少々都心から離れたところに本拠地を構えることに成功した。仕方なく書いたといった雰囲気の年賀状の住所を見て、誘われたわけでもないのだが、僕は無理矢理にそこへ押しかけたのだった。どうせ、就職活動もろくにしていなかったような奴だ、暇だろう、と勝手に思い込んでのことだった。
 たどり着いた彼の家は、真っ白だった。
 周りから迫ってくるのではないか、そう思うほどにそそり立つ白い壁が、ベッドに座る僕の居心地を悪くさせる。僕が居るにも関わらず、彼にはお茶を出す気など全くないらしい。いつもと同じ生活を続けようとするがごとく、壁際に寄せた机に向かい、紙切れにペンを走らせる。その音が、乾いた空気の中で反響していった。一体、彼は何をして生活しているのだろう。そう思ってそのまま彼に聞くと、彼は迷惑そうに振り返りながら
「編集」
 できる限り無駄を省いた言葉で返した。文章を見ては文字の羅列としか思っていなさそうな彼がよくそんな仕事を選んだものだ。そう思いながらも彼に、その今書いているのも編集の作業なのか、そう問うた。
「違う。今度出す本」
 また聞かれるのが面倒だったのか、珍しく多くの言葉を発した。今度出す本、その意味を図りかねた僕が少し眉をしかめると、彼は「俺が出す」とだけボソッと付け加えた。
 彼が、本を出す。つまり、そういうことだ。
 彼が物語やら何やらを書けるなんて、そんなことはもちろん思っていない。彼の興味は唯いつもの自分の疑問にあるわけだから、彼が自分の思考を文章化するのは明白だった。
 だから、僕は彼らの違いを知りたいと思って試してみることにしたのだ。彼の本を、彼女に読ませる。その感想や考えや彼女が決して言いそうにもない思考を、全て聞き出す。そして、彼の本を読みその違いを知ってやろう。もし僕が彼らについていけないようなら、普通の会社員に浸っていこうと思ったのだ。
 そして僕は、彼の本が出版されてすぐにそれを彼女に紹介した。彼女は小さく笑いながら「まさか、信じられない」と少し呆れたような困ったような顔で言って、しかしその本を買った。彼女がそれを読み終わっただろうころを見計らって感想を聞いてみた。そして、僕はとうとうその違いを発見した。
 違うのは、『人種』でなくてその興味の対象。彼は自分が持つ疑問――何の為に自分は存在するのか。何の為に生きている。何の為に働き、金を手に入れ、空腹を満たし、あらゆる欲を満たしていくのか――それに向けられているようだった。そして彼女の興味の対象は、彼の生に対する疑問とは正反対にも見えた。完璧すぎる死と不完全な生の、完全なる対比。死の中に、生にはない完璧さを求めているのだ……。
 それと同時に、僕はようやく悟ることができたのだ。僕は、彼らに囚われていたのだと。彼らの違う考えやなにやらに、すっかり魅了されていたのだと。しかし、それは僕には着いていけない世界だった。だから。
 だから、僕は普通の世界に戻ろうと思う。
 大学時代に離れて、それでも忘れ去ることのできなかった普通の世界に。何の変哲もない、新社員としての生活に。誰も望まない……しかし、最も平和で安全な美しい世界に。


 僕は、自分の身を開放する。



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