年の夜明けに  

 痛みを伴うような冷たい空気に身をすくませて、奈緒子はまだ人の気配の無いくすんだ色をした細い道の中を歩き出した。
 新年だというのに、毎年訪れる浮き立つ気持ちも無いことを少し不思議に思いながら、薄い氷が張っているかのような空を見上げる。自らが吐き出した白い吐息の奥に見える空は、遠くに昇り始めた朝日にかすかに頬を染めながら、それでも反対側の空にはまだ朝の光が届いていないかのように冷たい氷が広がっている。
 だからこその寒さ、なのかもしれないが。
 そう思いながらコートに入っていた薄水色をした柔らかい手袋を取り出して両手に嵌め、手を擦り合わせる。少し温まっては直ぐにまた冷えてしまうその手をコートのポケットに入れて、奈緒子は足を速めた。
 幾ら混雑が嫌だからと言って、こんなに早く出てくる事も無かったかもしれない。そう思いながら吐き出した息は白く、もやもやとした形のまま上昇し、青く透明に澄み渡っているにも関わらずくすんだ色をした空の中に消失していった。
 今は遠くに見える暖かそうな太陽が高く昇り薄い空を照らしたとしても、今日はまだまだ、冬のような寒さが続くのだろうと思えた。
 神社の前まで来て再び手を擦り合わせ、冷たい石段を登る。冷たい空気が肌を撫でていくその感覚に首を縮め、やはり浮き立たない気持ちを抱えるようにしながら硬い石畳を歩く。
 新年でもさすがに、こんな朝早くに参拝に来るような物好きは、やはり自分以外にはいないか。そう思いながら左右を見回して、思わず立ち止まった。
 参拝に向かうまでの太く大きな石畳には、左右一本ずつの小道が伸びている。その右手側にある小道の直ぐ横、木製のいつもなら老人が二人、三人のんびりと座っているベンチに、若い男性が座っていたのだ。ふと我に返ってゆっくりと歩き出しながら、奈緒子はその人を見詰めた。
 こちらに背を向けてつまらなそうに前方を見ている姿は、本人にしてみれば、ただ、朝の冷たい空気に身を縮めているだけなのだろうが、奈緒子はその様子に拒絶されているような気持ちを覚えて、視線を逸らしてさっさと参拝しようと足を速めた。石段を一つ登ったところで少しだけ振り返り、その遠くに見える彼の横顔を見る。同じクラスの、確か宮村とか言ったか。何人かの女子が彼について話していたのを、聞いたような気がする。
 再び前方に向き直って石段を上り切り、参拝をする。少し考えたものの何をお願いしたいわけでもないので、形だけの参拝だ。
 今年もいい年になりますように、と例年通りのことを心の中で呟いて、階段を下りようと振り返り、宮村がなんとも形状し難い顔で奈緒子の方を見ている事に気が付いた。どうやら、鈴祓えの音で奈緒子の存在に気が付いたらしい。
 視線が合ってしまったのでそのまま無視して帰っていってしまうのも気が引けて、石段を降りた奈緒子は宮村の方へ近付く。石畳から白い石が敷き詰めてある所まで来ると、彼は奈緒子から視線を外し、先ほどと同じ方へと向き直った。
 つまらなそうな視線で遠くの方を見詰めているが、先よりも少しだけ柔らかい雰囲気に思えた。
 軽い音を立てる小石に微かな煩わしさを感じながら宮村に近付き、ベンチに座る彼の直ぐ横に立つ。そうしながらも薄茶色をしたマフラーに顔の半ばまで埋もれさせている宮村の表情が分からず、何と話しかければいいものかと迷った奈緒子が黙然としていると、ちらりと視線を上げた宮村が「参拝?」と話しかけてきた。
 きっかけを与えてくれた事に安堵して、奈緒子はそう、と小さく頷く。吐き出された白い吐息が、はっきりしない形のまま彼女の目の前で消える。
「早いね」
「混雑してる中で来たくなかったから」
 軽く微笑みながらそう答えてから会話が止まりそうなことに気付き、奈緒子は慌てて「宮村君は?」と聞き返した。ん、と不思議そうな顔をして見上げてくる彼に対し、
「宮村君は、何しに来たの?」
 と聞き直す。そして、参拝じゃないみたいだけど、と付け加える。それを聞いてようやく、彼はああと声を上げて「あれ」と言いながら視線を小道の先にある広場へと投げた。白い石畳が円を描くように広がり、それをまた白い石段が取り囲んでいる。奈緒子の位置から小道を少し下っていった先に、更に低く掘り下げてその広場は作られていた。いつもは何人もの子供たちがボール遊びをしたりして使用される広場には、今は誰も居らず、代わりに一匹の小柄な茶色い犬が、元気良くその広場の中を小さな円を描くようにして走り回っている。
「散歩? 犬、飼ってたんだ」
 小さな犬がぐるぐると走り、時々飛び跳ねる。まだ、子犬だろうか。幾ら走り回っても疲れることは無いのではないかと、そう思えた。
「うん、そう」
 小さく頷きながら答えて、寒そうに自らの体を抱き、走り回る子犬を眺める。両手でしきりに腕を擦り、足を動かしているのは、余程寒いのか。しばらく黙って腕を擦っていた彼が犬の方向を眺めたまま、ふっと少しだけ口元を緩めた。
「この時間になると、うるさいんだ。散歩しろって、俺が寝てても構わずに催促してくる」
 少し顔を顰めるようにして言って来たのは、わざとなのだろう。彼の様子に小さく笑って、奈緒子も犬の方を見た。いい加減に飽きてしまったのか、いつのまにやら、同じところで円を描くのをやめている。その様子を見た宮村が、もういいかな、と小さな声で呟き立ち上がると「行くぞ」と犬に向かって声を掛けた。子犬が楽しそうに吠えて石段を駆け上がってくるのを待って、
「行こう、もう帰るでしょ」
 と奈緒子に声を掛ける。言われて一瞬だけ戸惑ったものの、奈緒子はすぐに、うん、と頷いた。そして、歩き出した彼の斜め後ろ辺りを歩いていく。
 元気良く跳ねていくように石段を降りていく子犬に続いて歩いていく宮村の少し明るい後ろ頭を眺めながら、学校がある時も、こうなの? と奈緒子は尋ねた。言われた意味が良く分からなかったのか、ん、と聞き返しながら、宮村が奈緒子のことを振り返る。彼の足元で、犬が何かを催促しているかのように小さく吠え、短くない尻尾を左右に振った。
「散歩、冬休みだけなのかなあって思って」
 理解したような顔をした宮村が、ああ、と呟いた。そして、前方に向き直って再び歩き出す。
「一応は。でもまあ、学校あっても来ようと思えば来れる、かな」
 答えて、何で、と不思議そうに聞きながら、一瞬だけ奈緒子の方を振り返った。軽く笑いながら「なんとなく」と答えて、少し足を速めて宮村の横に並ぶ。高い所にある彼の顔を見上げると視線がぶつかった。すると宮村は、ああ、と迷うかの様に声を上げて
「寒いな」
 と呟きながら視線を逸らした。それに微笑みながら、そうだね、と同意し、奈緒子は視線を下ろす。ゆったりとした白い吐息はやはり空に浮かび、直ぐに消えた。
 十字路まで来ると、ふと宮村が足を止めて
「家、こっちなんだけど」
 と言いながら右側の通路を指差した。浮いていた気持ちが、少し沈む。
「じゃあ、ここで」
「そうだな」
 あっさりと、しかし苦笑するような顔で返事をした宮村が、じゃあ、と手を上げて奈緒子に背を向ける。彼女もじゃあね、と手を振りかけて、ふと、視界に子犬が入ってきた。
 しっぽを左右に振りながら、じっとこちらを見上げてくるその様子を見て、あのさ、と奈緒子は声を上げた。不思議そうな顔をして、宮村が振り向く。
「散歩。明日も、一緒に来ていいかな」
 彼の位置が、少し遠い。そんな事を思いながら、だめかな、と言葉を続けると、宮村はしばらく沈黙してから楽しそうな笑みを浮かべた。
「いいよ」
 弾むような声での返事に、奈緒子もまた嬉しそうに笑った。
「同じ時間、でいいかな」
「ああ、同じ所にいるから」
「うん、わかった」
 心持ち浮き立った声で返事をすると同時に、足元でくるりと小さな円を描いた犬が、元気良く吠えた。驚いた奈緒子が足元を見下ろして、宮村もまた同じように驚いているのに気が付く。そして二人してその驚いた顔を見合わせて、楽しそうに笑いあった。
「それじゃあ」
「うん。じゃあね」
 そう言って軽く手を振った宮村が、楽しそうにはしゃぐ犬を少し追い立てるように促して、去っていく。その姿をしばらくの間だけ見送って、奈緒子は小さく微笑んだ。家の方向へと向かって歩き出しながら、明るく深い青色に染まった空を見上げる。

 今日はこれから、暖かくなるだろう。
 そう、感じた。



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