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獅 子 物 語
雨は、三年間降り続けた。
水は溢れ、氾濫し、多くのものを、人を、押し流した。
深い深い森の中、笠を深く被り歩く女の姿があった。
黒く長い髪、白い肌、笠の下にかすかに見ることの出来る顔とふっくらとした赤い唇。美しいその容姿の中に高貴なものを感じさせる彼女は、想像される身分には似合わず、連れているのは侍女一人。慣れぬ足取りで生い茂る草を掻き分け掻き分け、歩いていた。
――奥方様。お疲れでは……?
――いえ……大丈夫、大丈夫。この程度、御館様の苦しみに比べれば……。
奥方様と呼ばれた美女が答え、足を進める。
二人、無言で進んでしばらく、まず侍女がそれに気付き、少し遅れて、美女がそれに気が付いた。
馬に乗った軽装の男と、おそらくそれに仕える数人の男達。全体的に軽装であり、遠くから来たのではないことが分かる。
――……あれは?
美女の言葉に、侍女はしっと口元に指を立てて答える。そして、辺りを見回して、古い宮を見つけると、美女の手を引いてそこへと隠れるよう促した。
そのまま、見つからずに行ってしまえばいい。
侍女のはかない願いも敵わず、山に積もる枯葉が音を立て、男達がこちらを振り向いた。
――ほう
主人らしき男が、目を細めて宮へ隠れようとする美女を見た。
――あれは、いずれ戦に負けた国の、上臈、貴女、貴婦人の落人とみえますな。
側近の一人が言うその言葉に、そうであろうな、と鷹揚に頷く。
――絶世の美女じゃ。しゃっ掴出いて奉れ。
男が言うと、近習達は頭を下げ了承の意を示すと、すぐに身を翻して宮へと向かった。
あれは確か、地主神の宮。
何もそのようなところに逃げ込まずとも、と呟く男の口元には、知らず、笑みが浮かんでいた。あの美女を我が手元に置けるならば、今日の、大した獲物も獲れなかった鷹狩よりも、よほど価値がある。
――今日は良い日よ。
小さく呟いた男に対し、最悪だと思ったのは美女と、その侍女の二人だ。
男達の行く手を阻もうとした侍女は、すぐに突き飛ばされて、意識を失った。
宮の奥に駆け込むも、そこには獅子の頭が飾られているだけで、行き止まりだ。振り返れば、男達がいた。能面のような彼らを睨みつけながら、後手に獅子の頭に触れる。
――下がりなさい。わらわを誰と心得ておる。
後にいる獅子が、彼女を元気付けるように、手に擦り寄ってきたように感じた。
――申し訳ないが
そう口にしたのは、当然彼女でも獅子でもなく、能面のような男の一人だった。
――……主の命であります故。
本当に、申し訳なさそうな口調に聞こえれば、少しはマシだったのかもしれない。だが、彼の声は、そうとは聞こえなかった。ただ、早くこの面倒な命をこなし、引き渡してしまいたい。そういった考えが、透けて見えるような気がした。
――いけ。
くいっと顎をしゃくるようにして男が命じると、後にいた男達がすぐに動いた。
腕を取り押さえられ、暴れようとしても、女の力で敵うはずも無い。引っ張り出そうとする彼らに全力で抵抗しながら、思い出したのは、御館様の姿だった。
あの方に身も心も捧げた自分が、このような、どこの馬の骨とも知れぬものたちに、犯されようとしているのか。そう思うと、怒りで胃が煮えくり返りそうだった。
――こうなれば……
思い切り舌を噛み切ると、驚いた男達が手を離した。
崩れるように倒れこみ、赤が広がる床の上を這う。
見下ろされているのを感じた。
その視線に促されるように顔を上げて、獅子と目が合った。
彼女の気持ちを代弁するかのように、苦痛と怒りにその顔を歪める獅子を見て、ああ、と声を上げる。
――あわれ獅子や、名誉の作や。
手を伸ばす。自身の血に濡れたそれは、すっと、獅子の頬を撫でた。
――わらわにかばかりの力あらば、虎狼の手にかかりはせじを……
この言葉が、男や獅子の耳に届いたのかは分からない。もしかしたら、言葉にすらなっていなかったのかもしれない。
だが、事切れた彼女には、関係の無いことだった。彼女の細い腕が、床の上に落ちた。
獅子は見ていた。
血塗れたその手が自らの頬をなで、落ちていく姿を。
瞬きすらせず、ただじっと、見つめていた。
そして、
――…………。
彼女の言葉に、ただ一つ吼えた。
彼女から流れ落ちた赤い雫を甞め、悲しげな声を出しながら、獅子は倒れ附したままの彼女に擦り寄る。
広がり続ける赤を甞めて、甞めて。
獅子のうつろな瞳から零れ落ちた雫が雨となった。
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