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月の泣いている夜だった。
彼女は僕の部屋から飛び出して、まだ細かい雨が降り続ける外へと走って出て行ったのだ。
飛び出す直前、彼女にはたかれた頬をしばし呆然と押さえて、僕は熱を持つそこの痛みに感じ入っていた。
動けなかった。動こうとしなかったのかもしれない。
ともかく僕は、何をするわけでもなくその場に立ち尽くしていたのだ。
ふざけないでよ。
怒気を含んだ彼女の荒々しい声が、頭の中で反響する。
そんなの、逃げてるだけじゃないの。
そうさ。そうとも、僕は弱い。君みたいに現実を直視する事が出来なくて、ずっと逃げ回っていたのさ。
ロマンチックな夢を見て、それを君に押し付けて、そうして、どうにか自分を保っていたんだ。自分を騙して騙し続ける事で、君と一緒に居られたんだよ。
足を、動かす。頬を押さえていた手を離すと、湿気をたっぷりと含んだ冷たい空気が、僕の頬に触れて熱を奪っていくのを感じた。ちりちりと、痛みが頬を刺し続ける。
いい加減にして。私は、もう、貴方の逃げに付き合いたくはない。
僕は、ようやく外に踏み出した。
彼女の家に向かう為、走り出す。雨に濡れた道路が電灯の光を浴びて、黒々と光っていた。霧雨のような雨が降っていて、僕の髪を、服を、ゆっくりと湿らしていく。
月の、泣いている夜だった。
僕は彼女を追いかけて、その道を走っていったのだ。
月 の 涙
彼女と出会ったのはこの大学に入ってからのことだ。
自分という存在にイマイチ自信がもつことが出来ず、また自分のやりたいことも特になかった僕は、手近なサークルに入ることにした。一番最初に、僕に誘いをかけた文化系サークル。そういった決まりを作って、新入生を捕まえようと躍起になっている先輩達の中を通っていったところ、最初に僕を捕まえたそのサークルに僕は入ったのだ。
特に何か思って入ったわけではなかったから、同じ学年の彼女が一生懸命にこのサークルに打ち込んでいるのを見て、僕は不思議に思った。
現実なんて、どうしようもないぐらいに弱くて儚い、時間が経てば直ぐに消失してしまうようなものじゃないか。
それなのに、どうしてそこまで一生懸命に、何かに打ち込むことが出来るのだろうか。透明すぎる現実は、幾ら色を塗ったとしても直ぐに流れ落ちてしまうだろうに。
僕がそう思う一方で、彼女もまた僕のことを不思議に思っていたらしい。
どうして一生懸命に打ち込むことをしないのか、どうして現実から逃れるように行くことしかしないのか、と。
「未だに不思議だわ」
と彼女が言ったのは付き合い始めて五、六ヶ月程経った頃のことだった。いつもと同じように僕の部屋で夕食を食べ終わって、彼女がてきぱきとそれらの皿を片付けながら、ふと思い出したように言っていた。
「何がさ?」
「貴方と、私が付き合ってること。考え方も生き方も正反対なのに、よく持ってるわ」
言いながら、はいと白いカップに入れたコーヒーを僕の方に差し出した。どうも、とそれを受け取って、彼女は何故そんなことを言い出すだろうと思いながらそれに口をつけたのを覚えている。
その時のコーヒーは、いつもと同じ濃さに見えたにも関わらず、やたらと、苦かった。
彼女には、妙に冷めている所があった。
どんなに盛り上がった会でも、ふっと冷めた目をして周囲を見る。楽しくないのか、と聞くと違うと答え、嘘偽りのなさそうな笑顔が戻ってくるのだ。その事を聞いてみると、彼女はそうね、と少し首を傾げながらこう説明した。
「客観的、なのよ。どんなに楽しくて、気分が盛り上がっていたとしても、その一方でもう一人の冷静な自分がそれを眺めているの。だから、どこまで盛り上がってもふっと、切なくなる。なんで自分はこんなに盛り上がってるんだろうって、そう疑問に思う自分に、同情したくなるの」
そういう彼女に、憂いは感じなかった。
唯、少し考えるような彼女の姿に、強く心引かれているのを感じた。
違うのだ。この人は、違う。
自分のように現実から逃げようとしていないのだ。
現実から、逃げられないのだ。
そう、感じた。
もしかしたら、僕は彼女を哀れんでいたのかもしれない。
自分は、現実から逃げる事が出来る。それはある種の能力とか特技とかそんなようなもので、現実から逃げるなんて情けないと言っている彼女も、実は僕のことが羨ましいのではないか。自分が持っていない能力を僕が持っているので、それが羨ましくてならないのではないか。
そう思ったのが二、三ヶ月ほど前のこと。実際聞いた事はなかったけれど、彼女が僕に対して情けない、逃げてばっかりで。現実から逃げても、どうしようもないのにと、そう言ってくるのを聞く度にそう思っていた。
だから、彼女が僕に対して嫌気がさしてきているなんて、気が付きもしなかった。
僕の弱いところをいつもそっと支えてくれるような人だったから、僕に嫌気が差すなんて考えもしなかったのだ。
彼女に言わせれば、それが、現実を見ていない、逃げているという事なのだろうが。
「……だから、放っておけないのよ」
そう言ってきたのは、いつだっただろう。
多分、付き合い始める前。彼女が僕の失敗、細かい事は覚えていないが、を見て言ってきた台詞だ。
彼女は苦笑しながら、落ち込む僕のことをそっと慰めてくれた。
その時の、言葉。
どこまでも優しい、何があっても受け止めてくれると思わせるような、母親のような笑顔だった。
それに、心底惚れた。
そんな風に笑う彼女は、本当に、綺麗だと思えたから。
彼女の事が本気で好きだったから、僕は現実から逃れられない彼女を救っているつもりだったのかもしれない。ロマンチックな夢を押し付けて、現実ではない逃げ道を掲示して、少しでも楽にしてあげようと思っていた。
でもそれは、傲慢だったのだ。
最初は仕方が無いな、子供だな、という感じだった彼女の笑顔に、段々と亀裂が入っていくのを僕は気付く事が出来なかった。
少しずつ、少しずつ入っていった亀裂が、とうとう今日になって限界に達した。そういう、事だろう。
「なあ、僕が悪かったよ。だから、戻ってきてくれないか……?」
一人暮らしをする彼女の部屋までやって来て、僕は厚い扉越しに声を掛けた。それでも彼女はなにも、何一つ、答えてくれやしなかった。
僕が謝れば彼女はいつものように、しょうがないな、という笑顔で許してくれるだろうと思っていたのに、そうはならなかったのだ。
これが、現実。
僕の逃げを一切断ち切るような、彼女の答えだった。
暗い道を逆戻りしながら、もしかすると、と考える。
もしかすると、僕が彼女の為にと掲示していた逃げ道は、彼女にとって単なる侮辱にしか映らなかったのかもしれない。
しょうがないな、と認めてあげようにも、彼女の高いプライドと現実を見詰められる強い意志が、それを認めるわけにはいかないのだ。
それが、彼女。
しっかり者の彼女の、逃げられない現実。
僕は、彼女を救ってあげたかった。そういうのは、多分嘘だ。彼女だって気が付いていた。
僕は唯、彼女に救ってもらいたかったのだ。
月が泣いている夜のこと。
僕が彼女の耳に好きだと囁くと、彼女は少し恥ずかしそうな顔をして、純情な少女のように笑った。それはいつもの気丈な彼女とは違う。多分、僕一人しか見ることの出来なかっただろう笑顔。
その儚い笑顔をずっと守りたいと、そう思った。
「なんか、今日は、月が泣いているみたい」
暗い道を二人で歩きながら、ふっと顔を上げた彼女は少し目を細めながらそう言った。
――泣いてる、の?
――そう、泣いてるの。でも、哀しいんじゃないと思う。そんな、涙じゃないもの。
――じゃあ、どうしたのさ。
そう聞くと、彼女は僕の手から逃れるようにして数歩前に出ると、僕のほうを振り返って、笑った。楽しそうに、どこまでも嬉しそうに。そして、少しだけ切ない笑顔で。
「どうして、だろうね」
そう言って、行こう、と僕の腕を引っ張ったのだ。
僕も、うん、と頷いて彼女の腕を取った。
月の、泣いている夜。
僕は今、一人であの日と同じ道を歩いている。彼女から拒絶されて、とぼとぼと家に向かって歩いている。
月の泣いている、夜の事。
僕は泣く事もせず、現実に打ちのめされている。救ってくれる人は誰もいない。
僕は、弱い。
弱すぎて弱すぎてどうしようもないのに、彼女はもう、僕の傍にはいないのだ。
月の泣いている夜だった。
ふと顔を上げると、月の涙が固まって、細かな雨となって僕の上に降り注いできた。
優しく、柔らかく。
まるで僕のことを、包み込むかのようにして。
暗い道に落ちた電灯の光が、月の涙をそっと照らした。
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