自転車・後  

「ねー、やっぱり悪いよぉ。自分で持つよぉ」
 彼の自転車をからから通しながら、ずりずりと車輪を引きずる彼を追いかけるようにして、彼女がそういった。彼の押している自転車の鍵穴には、気付く人は少ないだろうが、ヘアピンが突き刺さっている。
 彼女が鍵を開けようと試した時に使った、それだった。
 彼は彼女の言葉を受けて小さくため息をつくと、ぼそっと「いいよ」と答えた。それから、小さく振り返って彼女のほうを見る。
「多分、お前には押せないと思うぞ」
 その言葉に、彼女は小さく頬を膨らませて彼のほうを見た。一瞬、やっぱりそう来たか、と彼は思った。
「そんなの分かんないよぉ。やってみるっ!自分で持つべきだと思うもん」
「……じゃあ、試してみな」
 言って、彼はその自転車をその場に止めた。彼の自転車を持っておたおたとしている彼女のところに行って、彼女の持つ自転車を受け取る。
「ほら」と言う様に目線で彼女の自転車をさすと、彼女はとたとたと走って自転車のところまで行った。
 彼女がハンドルをもち、力を入れて押す。後ろのタイヤが、地面に落ちた。
 そして……ズ……と言う音を残して全く動かなくなる。彼女はしばらく地面を見つめて、再び腕に力を込めた。
 前に押して……動かない。
 彼は、自分の自転車を止めると、サドルの上に座ってしばらく彼女を眺めた。彼女は、幾度も前に押そうとして、出来ないことに気付き諦める。
「なぁ、もう良いんじゃないか?」
 いい加減呆れた声で言ってくる彼に、彼女は少しむくれた顔をして分かったと答えた。
 再び自転車を交代して、彼が押し始める。彼女はしばらくむくれたような顔のまま付いてきていたが、ふと顔を上げて彼のほうを見た。
「そういえば、どこ行くの?」
 今まで、図書館から出てきて二十分ほどたつのに聞いてこなかったのが不思議な質問である。彼は再び小さくため息をついて、「自転車屋だよ」と答えた。それから、少し不親切だっただろうかと思い、言葉を付け足す。
「この鍵を直してもらえば、また乗れるようになるだろう」
 図書館から店までの道のりにある唯一の信号が運悪く赤になり、彼はその場に自転車を止めた。ひょいと、サドルの上に座る。
 いい加減、自転車を押す彼も疲れてきたようだった。
「ねえ、やっぱりさあ……」
「押せないだろ?」
「……むー」
 信号が変わるまでの間に、三回ほどこの会話は行われた。
 青信号に変わるやいなや、彼は即座に時差ドルから降り立ち自転車を押し始めた。そして。
 プシュううううぅぅぅぅぅ…………。
 気の抜ける音がして、彼は嫌な予感とともに音のした方向、簡単に言うと自転車の後輪のほうを見た。
「うわあ、すごい、空気抜けたよー。初めて見たー」
 のんびりと、そして興味津々な声を出した彼女の言葉を受けて、彼は再びため息をついた。
「……パンクかよ、今度は」

 小さな自転車屋の前、後輪がパンクし鍵穴からはヘアピンが見えるという不思議な自転車がおいてあった。店主である行動が少しのんびりとしたおじさんが、その自転車を詳細を調べる。
「どれぐらい、かかります?」
 ここまで自転車を押してきて暑くなったのだろう、彼が服の襟元をパタパタとやりながらそのおじさんに聞いた。彼女は、借りてきたばかりの本を使ってパタンパタンと仰いでいる(らしい)。
 おじさんはうーむと小さくうなってから、
「一時間ほどだねえ、ああ、タイヤも見事にパンクしてるね」  とどこまでが一言なのかよく分からない台詞で答えた。そして、大きなペンチを取り出して彼女の自転車の鍵をパチンと切った。おお、と彼女が小さく声を上げる。
 そうですかと彼は小さく答えた。
 彼女はふと何かを思いついた顔をして、彼の服を引っ張った。「?」といった顔をして、そちらに顔を向ける。
「私ね、MD買いたいの。今のうちに、買って来たい」
「ああ、行っておいで。それまでに私が直してあげよう」
 彼が答える前におじさんが答えて、彼女は少し嬉しそうに笑った。それから、再び彼のほうを仰ぎ見る。その視線を受けて、彼はふうと息を吐き出した。
「そこの百均だよな?……すいません、お願いします」
 彼女に確認してから、そのおじさんに頼む。
 愛想のいいおじさんは、楽しげに笑って頷いてくれた。

 からからからからからからと自転車の車輪が全て軽い音を立てて回る。久々にまともな自転車を持った彼は、自転車とはこんなに軽いものだったのかと感動を覚えた。
「すごいねー、あのおじさん。直せるんだねー。すごいねー」
 先ほどから彼とは違う事を感動しつつ、ひょこひょこと自分の自転車を押してくるのは彼女の方だ。自転車屋が自転車を直せなくてどうするのだと思ったのだが、彼はあえてつっこまなかった。ずっと押してきたのである。今は、しっかりと体力を回復させたい気分だった。
「うみゅ、ここからは一人で帰れるよ。ありがとー」
 不思議な音声と共に彼女がお礼を言って、百円ショップの袋を入れた自転車を押して、彼に背を向けた。揺れるその袋をしばらく見て「あ」と彼は声を上げた。
「な、お前にやるものあったんだ」
「なんかくれるの?」
 彼の言葉にキョトンとして、彼女はその場に立ち止まった。自転車をその場に止めた彼が数歩歩いて彼女のところまで行き、自らのポケットの中から小さな箱を取り出した。袋に包まれているのでそれが何か分からない。彼女は、それを差し出してくる彼に不思議そうな視線を向けた。
「ほら、ヘアピンだめになったじゃないか」
「……あ、ありがとーっ!!」
 彼の補足説明にようやく納得して、彼女は彼の手からその袋を受け取った。その袋から取り出した透明で小さな箱には、何本も数え切れないほどのヘアピンが詰まっている。
「うわ、うわ、こんなにもらっちゃっていいの?」
 慌てたように聞いてくる彼女に苦笑して、彼は「いいよ」とだけ答えた。それから、しばらく考えて少々ぶっきらぼうに聞こえたかと思い、補足する。
「どうせ、んな高くなかったし」
 さすがに、一箱で百五円だったとはいえなかった。
「ありがとうっ!それじゃ、またあしたねっ」
 先ほどよりもかなり元気に言って、彼女は自転車に乗った。あまりスピードを出さずにこぎながら、じゃあねえと前を見ずに手を振ってくる。
 小さく手を振りかえしながら、
「あいつ……ぶつからないかのか?」
 と小さくつぶやいて、彼は彼女が見えなくなるまで見送った。それから、自分の自転車にまたがり、走り出す。
 耳の横で風のうなる音を聞きながら、ああ、やっぱり自転車は押すものじゃないよなと思った。
 すこし、押してかいた汗が寒かった。



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