気付きの時(5)   

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 ナツヤの広い背中を見送ったトオルは、ようやく痛みの戻ってきた頬に手を当てて、いて、と呟いた。熱が痛みを引き起こすかのような感覚があり、どうやら腫れているらしいと分かる。
 どれほどかは分からないが、少なくとも今、ミカに会いに行けばすぐに分かってしまうだろうなと思い、一方で会いに行かなかったとしても心配されるのだろうと思う。
 そう思ってから、ああ、と小さく呟いて研究所の白くて広い、しかし薄く汚れた冷たい壁にゆっくりと、背中を預けた。
 そしてその場にしゃがみ込んで、一瞬だけ服が汚れるかなと考えてからそれはもう遅いのかと思い直し、体の力を抜いた。熱い頬をその冷たい壁に軽く触れさせると、白い壁の中に熱が吸い込まれていくように頬が冷えて、その感覚に酔うように少しの間だけ目を閉じる。
 ミカに会いに行かなければとは思うものの、その場から動きたくないという思いが勝る。
 奇妙とも思える義務感と脱力に揺れ動きながら再び目を開けて、そう言えば、とナツヤの言葉を思い出した。


 奪ってやる。


 そう言った瞬間に彼の瞳の中にあったのは、迷いに近いものだったのだろうか。
 決意とは違う、強い目をしていたなあとのんびり思い返してからようやく、トオルはああ、と小さく声を上げた。
「それはちょっと、困るなあ」
 頬を壁から引き離すように体を動かして小さく呟き、彼はゆっくりと立ちあがった。
 白衣についた汚れを叩き、予想はしていたがそれぐらいでは落ちてくれないそのしつこさに嘆息して、彼女の所へ行こう、と思った。
 盗られても居なくなっても困る、彼女の元へ向かおう、と。
 そう思うと、彼の中で動こうとする気力が沸いた。


 そして初めて、ナツヤに感謝しようと思った。

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