思い出の時を   

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 重く凝り固まった肩をぐるりと回し、ぐっと背中を伸ばすようにして、トオルはふうと息をついた。
 そろそろと日の傾き始める部屋の中で踊りまわるように響いていたキーボードを叩く音が消え、重みのある静けさが闇と共に沈んで行く。
 机から離れ立ち上がった彼は、ぴくりとも動かない『彼女』の隣を通り過ぎ、キッチンへと向かった。


 電気をつけ、いつもと同じように濃いブラックコーヒーを入れようとして、ふと思いつき、彼女が居なくなってからは久しく出していなかった紅茶の缶を取り出した。
 コーヒーが嫌いな彼女が良く買っていた、銘柄は良く分からないが香り高い紅茶で、彼女が疲れた日には彼が良く代わりに入れてあげていた。
 机に突っ伏してぐったりとした彼女の前に暖かな湯気をあげるカップを置くと、ゆっくりと顔を上げて少し眠た気な顔を見せ、ありがとうと少し間延びした声で言ってきたものだ。
 そんなことを思い出して小さく微笑みながら、昔彼女に教えられた手順を思い出しつつ、その紅茶を入れた。
 飴色の濃い液体が白いカップの中になだれ込み、白い湯気を上げる。懐かしい香りが辺り一体を包み込み、妙に気分が高揚するのを感じた。
 ゆっくりと口に運んで、少し早かったかなと思い、しかしこれでまた『彼女』と共にこの味を楽しめるかと思うとそんなこともどうでも良いような気分になる。
 暖かなそのカップを手に持ち、明るくなった部屋の中、彼は再びキーボードの前に座った。そして、黒と白で彩られたその画面を見つめる。


 思っていたよりも、『彼女』の記憶を再構築するのには時間が掛かってしまった。
 彼女が教えてくれた過去の話と、前にナツヤに教えてもらった話。自分が覚えている限りで彼女が知っていなければおかしいと想像される話。
 それら全てを『彼女』の記憶となるチップの中に入力したのだ。
 入力し、記号に変換、信号となったそれら全ては『彼女』の頭脳に着々と蓄積、整理されているはずで、そういった全ての物が『彼女』を彼女自身に近づけるのだと、彼は確信を持っていた。


 ナツヤに殴られてから数日後、トオルは彼女に好きだということを伝えた。
 その瞬間の、泣きそうなほどの喜びに歪んだ彼女の顔は、とてもよく覚えている。
 彼女に言う前にナツヤにそう言う事は伝えてあったのではあるが、少し苦笑しているようにも、何かをこらえているようにも見える顔でよかったと言われた時には、さすがに罪悪感を覚えたものだ。そのしばらく後にナツヤに彼女が出来たと聞いた時には、妙にホッとしたのも覚えている。
 それからしばらく、二人して研究に没頭していたのだが、ある時、それが当然であるように結婚しようという話になった。
 もっとロマンチックにして欲しかったな、というのがミカの感想だったのだが、その直後にそんなのは無理だよね、と笑いながら付け足していた。

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