失われる時   

 ・ 

 トオルはあの時、与えられた研究所の個室に篭り、その時に続けていた研究の途中経過を論文としてまとめていた。  もう何日にも及んでいるので、数日前に論文を書き上げたミカが毎日、彼のために昼食を運んできてくれていた。夕方近くなれば二人で購入した家に帰り、寝るまでの時間を楽しく会話をする時間に当てる。朝になればミカが優しく彼の事を揺り起こし、暖かな湯気を立てる朝食を摂って、少々うんざりしながらも論文へと向かう。
 そんな日々を繰り返していたある時だった。


 ミカは、車にひかれた。


 飲酒運転だったとも、前方不注意だったとも言われたが、そんなことは彼にはどうでも良いことだった。
 彼女が事故によって重体に陥った、すぐに病院へ来て欲しい。
 そう言われた瞬間、自分が何を考えたのかは良く覚えていない。ただひたすら、彼女の居る病院へと車を走らせたことだけは覚えていた。
 病院へ着いてみると、彼女は既に集中治療室へと入っていた。
 担当医の名前は、残念ながら思い出すことが出来ないが、町の中では最も信用の出来る医者であった。着いた時は手術が始まって直ぐだったはずだ。
 先に病院に着いていたナツヤが心配そうな顔をして彼を見て、それに気付きながらも何も言うことが出来ずにそのまま、待合室にあった黒い革張りの長いすに座り込んだ。
 数時間後、いや彼の感覚をまともに信じるならば数日ということになるが、彼女はそのまま、手術中に息を引き取った。
 トオルと結婚して数年と経っていなかった。


 かちかちと光っていた手術中の赤いランプが消えて、重そうな白い扉を開いて出てきた医者を見た瞬間に、トオルは絶望的な気持ちを抱いた。あまり表情の動かない医者ではあったが、その出てきた様子を見ただけで、彼には失敗だとすぐに分かったのだ。
 慌てたように立ち上がり、微かにトオルを気にする様子を見せながらも、どうだったのかと医者に尋ねるナツヤを見ながら、無駄なのにとぼんやりと考えていた事を思い出す。
 多分、今思ってみても自分は普通な反応をしていなかったのだなと、そう思えた。
 どうにかならないのか、と聞くのは夫であるトオルではなく、それ以上に必死さを見せるナツヤであった。
 扉から出てきた医者を一瞥した後は、頭を抱え黙り込んでしまった彼の事が気になったのであろう、ナツヤの視線が送られてくるのを感じる。
 しかしそれでも、彼は顔を上げる気は全くなかった。
 彼の医学知識と看護婦から聞いた事故の状態を考えれば、彼女の手術が成功するのは難しいだろうと簡単に判断できた。
 彼が俯き頭を抱えたままでいると、残念ですが、と呟く医者の声が聞こえてくる。
 それに反応してナツヤが、なんでだよ、と声を荒げた。
 なんでも何もない、しょうがないだろうと、彼は心の中で呟く。
 自分の頭の中が奇妙な程に冴えているのが分かった。


 彼女が死んだなんてありえない。
 なあ、お前からもなんか言えよ。このままだと、本当に、ミカが死ぬんだぞ、居なくなるんだぞっ!


 言いながら肩を揺さぶってくるのは、彼の事を考えてなのか、それともナツヤ自身の為なのか。そんなことを考えてしまうのは、既に自分の中から落ち着きが失われているせいなのか。
 肩を揺さぶってくるナツヤの手をゆっくりと払いのけた彼は、それは無理だよ、と小さな声で呟いた。
 事故の様子と怪我の状態、考える限り、もうどうしようもないんだよ。
 そう言ってゆっくりと立ち上がり、驚いて声を掛けてくるナツヤを無視して、彼は冷たい廊下を見詰めたまま医者の前へと立った。そして医者の肩を掴んだのは、誰にとっても驚きの出来事だったのかもしれないと、そう思う。
 しかしその時のトオルはごく自然に、そして当然のようにそうした。
 顔を上げてその医者を見ると、彼は困惑していたようだった。
「ありがとう、ございました」
 そう言って、俯く。
 お疲れ様でした、ありがとうございましたと、搾り出すような声で呟いた。
 絶望的だった状況のはずなのに、必死に彼女を救おうとしてくれたその医者に感謝しようと、そう思えた。


 俯いたトオルの目に涙は浮かばなかったし、哀しくなかったわけでもない。
 ナツヤも医者も困惑しているだろうとはすぐに分かったことであるし、それに対して何か対応するべきなのかもしれないとも思った。
 それでも彼はただ、ありがとうございますとだけ繰り返した。
 彼は、仕方が無い、どうしようもないことだと思っていた。
 そうとしか、思えない。
 そのはずなのに、自分の思いの中から何かをごっそりと奪われてしまったかのような、または何も見ることが出来ないほどに白くて黒く、何もない空間に放り出されてしまったような感覚を覚えているのが、不思議だった。
 涙が出てこない自分が薄情なのではないかと、妙に不安な気持ちにも囚われていた。


 彼女はどう思うのだろうと、それだけを考えた。

 ・ 



当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送