選択の時は(3)   

 ・ 

 私は、機械ですから……。


 そう言った『彼女』の声は、夢と現とを行き来していたかのような彼の意識を、急速に現実に引き戻した。
 驚いた様子で見下ろす彼の事をじっと見つめながら、私は、と声を続ける。


「そう、人形とでも言うべきかも知れません。いえ、あってはならないもの、でしょうか。例え私を壊したとしても、それは至極当然のことで、貴方には何も罪はありません……」


 淡々と続けられた『彼女』の言葉に対し、彼は慌てて、待てよ、と声を掛ける。
 しかしそのはずの声は自分が発したものであるにも関わらず、霞がかった朧月夜を眺めているかのような現実感の無さがあった。


お前、その事、知ってたのか……?


 頭の中が、熱で埋まってしまったかの様だった。
 不思議そうに『彼女』が首を傾げ、その事とは、と聞き返す。


「お前が、機械だって……」


 彼の頭の中で、その言葉が響くようだった。
 静かな部屋に反響した声が、月光と共に闇深くに沈みその姿を消した頃にようやく、『彼女』は表情を崩し、ええ、と微笑んだ。
 そうしてから、少し首をかしげ、いいえ、と小さく呟く。


 いいえ、いいえ……。貴方がトオルと話していた時にその事を聞いたのですが、今ようやく、確信が持てました……。


そして『彼女』の吐息と共に続けられた、ありがとうございます、という言葉は、皮肉にしか聞こえなかった。
 自分が、自分の言葉が『彼女』を完全に殺すことになってしまったのだと思うと、直ぐに手を付き、トオルに謝りたい気分になった。しかし、それは何も意味を成さない。
 それだけは、分かっているつもりだった。


 貴方方の話で、生きていてはいけないのだと、思ったのです。存在してはいけないのだと、思いました。


 彼の足元辺りを見詰めながらそう続ける『彼女』を見、言葉を発しようとするものの、苦笑するような『彼女』のその雰囲気に飲み込まれる。


 ここまで自分の存在を否定できるなんて、思ったこともありませんでしたね……。


 顔を歪めて苦笑する『彼女』から目を逸らして、何か言わなければ、と思った。
 自然と見詰められた部屋の角の暗闇を睨むようにしながら、お前は、と声を発する。
 しかしそれは何を言うつもりで発した物でもなかった。ただ、『彼女』の雰囲気と自分の高鳴る心臓とに押し出されるようにして出てきたものだったのだ。
 しかし、それでも、


「お前は……、死ぬのが怖くないのか」


その言葉は、するりと、彼の口から滑り出てきた。
 彼の疑問に対して『彼女』は一瞬だけ考えるような顔をして、柔らかく、首を横に振った。
 月の光を反射する艶やかで長い髪が、『彼女』の首の動きにあわせて、緩やかに肩を流れていく。そして、その視線を窓から差し込む光に輝く床に固定し、いいえ、と小さな声で呟く。


「いいえ、いいえ……。私に感情は、ありませんから。……全てが彼のプログラム。彼が設定し、彼が想定した通りにしか動くことも、考えることも出来ない、単なる人形です」


 小さな、消え入りそうな声でそう答えて、ふっと口の端をゆがめるようにして笑った。
まるで自嘲しているかのように、『彼女』は、その赤く濡れた様な唇をゆがめた。


 だから、トオルは私に、私が機械であることを教えてくれなかったんですね。


 零れ落ちたような言葉に、彼は汗ばんだ手を再び握り直した。
 かさかさとした乾いた唇をなめて、彼は、そんなことは……、と呟く。
 そして、いや、と思い直した。
 トオルが『彼女』に対して機械であることを黙っていたのは、事実、『彼女』の『自殺』を恐れてのことなのだろう。
 そのことは、すぐにわかった……わかってしまった。
 トオルの言っていた通り『彼女』の思考がミカそのものなのだとしたら……。
 ミカが考えたならばその状況に耐えられないだろうということは、それぐらい、彼にもわかることだ。
 だからこそ、彼には言葉を続けることはできなかった。


「どうしました、ナツヤさん……」


 そこまで考えるならば、『彼女』のこの口調もわざとなのだろうと思われる。
 本物のミカならば彼が、自分の行為に罪悪感を覚え、戸惑い、苦しむことを知っているに違いない。それならば、その解消のために、少しでも彼の苦痛を減らすために、ミカは自分とは程遠い何者かを演じるに決まっているのだ。
 それがわかっているからこそ、彼は、いや、とかすれる声を絞り出した。


 お前に感情がないなんて、そうは思えない。今こうやっているのも、確かにトオルのプログラムに従えばそうなってしまうのかもしれないが、これは、少なくともお前の意思だってことになる……。


 かっかするかのように、彼の感情が彷徨いだすのがわかった。
 自分が何を考えているのかが分からない程に気分が高揚し、熱くなり、彼の頭の中に反響する。ぼんやりと霞がかかるような怒りの中で、彼はただ、だめだ、とだけ思った。
 なんとしてでも否定しなければならないのではないか。
  『彼女』の思考が彼女自身のもので、それこそミカと同じものであり、確かに受け入れられないものかもしれないが、それがトオルのためになるのではないか。
 そんな考えが頭の中で反響し、一体どうするべきなのかが分からなくなってしまったのだ。
 それはまるで、静かな湖面に小さな石を投げ込み、大きな波紋を広げていくかのような、落ち着きのなさを彼に与えた。


 そう、そうさ。と、彼は声を出した。
 霧の中に埋もれてしまったかのような思考の中に、ようやく、白々とした朝の光がもぐりこんだかのように、はっきりとはしていないが、ある程度まとまった考えが彼の中で浮上する。

 いいか、お前がものじゃないのなら、これは罪なんだ。お前そのものを消失させようという俺のこの考えは、犯罪なんだ。こんなのが許されるはずがない。それは、お前だって分かっているはずじゃないか。


 震える声が部屋の中で響いていく、そのことが妙に彼の意識を引っ張った。
 いや、そちらに意識を集中させていた。
 そうしないと、じっと見上げてくる『彼女』の視線とその沈黙の意味に、押しつぶされてしまいそうだったのだ。
 部屋の中にあった音が消えて、差し込んでいる光だけが寒々しく見える。自分でも奇妙だと思ったが、その青白い明かりの中に、罪悪感が長々と横たわっているかのように見えた。


 横たわる沈黙を睨みつけるかのように床を見ながら、『彼女』はじっと考え込んだ。
 『彼女』の中で、答えは既に決まっていたし、そこに他の選択肢は存在しないはずだった。
 それなのに今、彼が別の選択肢を引き出してきたことが意外であり、不思議でもあった。
 そう思うのはプログラムされているからなのだろうか、と一瞬だけ考え、しかしそんなことはどうでも良い、一つの答えに辿り着かせるしかないのだと思い直す。
 その為にとるべき行動は、悩むまでも無かった。
 目の前を横切る月光から目を上げて、彼のことを見上げる。


 そうするのが……。


 普通に言ったつもりの声が予想以上に震え、『彼女』は思わず口を噤んだ。
乾いた唇をなめて心を落ち着かせ、もう一度そうするのが、と声を出す。


 それが、トオルの為です。
 貴方だって分かっているでしょう、私が居れば、彼はこの『現実』から出て行こうとはしません。その事が彼にとって良いことだとは、私には思えません……。
 彼が『現実』に囚われているのが私のせいだと分かった以上、それをやめさせたいと思うのです。
 その為に、私自身を徹底的に、それこそ彼ですら直すことが出来ないほど徹底的に、壊すべきでしょう……。
 そんなことは誰かに、貴方に頼むしかありません。


 強い光を反射したかのように輝く瞳に見詰められて、彼は、小さく震えた。
それを見ながら、『彼女』は、私のためでもありますから、と続ける。
そして、すいと頭を下げ、お願いします、と呟いた。


 床に広がった黒い髪の毛が光を浴び、艶《あで》やかに輝く。
 それが、深く暗い海に反射した月光が一つの道を作っているような、そんな印象を彼に持たせた。
 飲み込まれてしまいそうな恐ろしさに身を震わせて、しかし、と小さな声で呟く。
 その躊躇いの原因が何なのか、彼は全く理解していなかった。
 ただ、身の底から湧き上がってくるような、絶え間ない暗闇の中に飲み込まれている。その感覚だけが、彼を支配し続けていた。


 そんな彼の気持ちを知ってか、『彼女』は再び、私は、と声を出した。
 決して顔を上げず、視線を合わせないようにと意識している事が、彼女を知っているナツヤには、すぐに分かった。
 正直すぎる彼女は、人の顔を見て心を偽ることが出来なかった。
 それを知っているだけに、彼は、胸の中に大きなしこりが出来たかのような不快感を持った。


 私は、痛みを感じません。
 感じないようにすることが出来ます。元々存在してはいけない存在だと分かった以上、自分が消えることを恐ろしいなんて思いませんし、思ってはいけないとおもっています。
ただ……。


 一度言葉を切り、『彼女』はようやく顔を上げた。
 彼の事を一瞬だけ見て、再び視線を落とした。


 ただ……、最後ぐらい、彼の為に死ぬことが出来たのだと、そう思いたい……。


 そう言って、お願いします、と再び頭を下げる。
 一瞬でも自分を見上げてきたというその事が、『彼女』がようやく、本音を言ってくれたのだろうと彼に思わせた。


 だからこそ、なのだろうか。


 その瞬間に、底の見えない闇の中から引っ張りあげられたような印象と共に、彼の中にあった戸惑いは全て消え去った。
 たった一つの解答の中に放り込まれた、とも言えるのかもしれない。
 ただ彼は、何も考えず、何も意識することをせず、わかった、とだけ答えた。


 それを聞いた『彼女』は、この上なく柔らかく、その上直ぐにでも壊れてしまいそうな淡い笑みを浮かべてみせた。

 ・ 



当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送