離別の時(3)   

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手紙を読み終わって、彼はようやく、自身の体が震えていることに気が付いた。
 自分を押さえつけるように腕を抱くと、足の力が萎えてしまうような気がして、そのままその場に座り込んだ。
 窓から差し込む光が目の前にある床を明るく照らし出し、部屋の中に強い陰影を作り出す。重い静けさの沈みこんだ床の暗がりに半ば入り込むようにして座り込んでいた彼は、ぐいっと手紙と共にその腕を掴んだ。
 柔らかい紙がくしゃり、と軽い音を立てて手の中でつぶれるのも気にせずに力を入れ続けると、自分の腕が鈍い痛みを感じ、そのまま沈黙するかのような麻痺に変わっていった。


 すまないことをした、と思った。
 彼女がそれを望まないだろう事は分かっていたことだし、ナツヤにも受け入れられないことは分かっていたのだ。


 それなのに、どうした。
 自分は彼女が居ることを強く望み、それ故に彼女の居ない現実を拒否した。そして、他のことも、他の人も、自分を含めた全てを無視して『彼女』を作ったのだ。
 そのことは多分、彼自身にとっての逃げ道だったのだろうと思う。
 つらい現実から目を逸らす為に『彼女』を作ることを求め、手段を最終目的へと切り替えたのだ。しかし、それも道理、というべきか。自分のようにどうしようもなく弱く卑しい心にはその方が楽であったし、逃げたのではなくたどり着いたと思う方が救われた気がした。
 だから、『彼女』を媒介として、ミカの存在を現実の物に置き換えたのだ。
 ナツヤが心配して掛けてくれた言葉に反発したのも、結局は自分の心理を否定しているように見えたからなのだろう。現実に戻るのが嫌なばかりに自分の心理を肯定し、小さな箱庭の中に自ら閉じ篭もるようにして、その蓋を閉めてしまった。


 なんという、愚かしさだろう。
 彼らを否定し続けることで逆に、自らの箱が美しいかのような錯覚を覚えた。
 そして『彼女』に、愛しているはずの彼女自身に言わせるまで、そのことに気付かなかった。
 なんという、愚かしさなのだろう。


 なんという――愚かしさだ。


 消えてしまった幻に、逆に安心してしまった自分が居る。
 どうしようもないぐらいに汚い自分は、『彼女』が居なくなったことでこの上ない開放感を覚えているのだ。
 『彼女』にしても同じ気持ちを持っていたのだろうか。
 お互いがお互いを箱の中に閉じ込めて、逃れられないようにしていたのだと、今更にして気付いた。そして、『彼女』がいち早くそのことに気が付いたからこそ、自らを――。


 そこまで思い、トオルは小さな声でごめん、と呟いた。


 ごめん、無理させてごめん……。辛かっただろうに、死にたくなんて無かったろうに……。
 止めなく湧き出る泉のように、ごめんを繰り返した。


 震える声が窓から入り込んだ温かな風に押し流され、柔らかな光の元で消失しただろう頃にようやく、トオルは両手の力を緩めた。
 零れ落ちていた言葉は跡形も無く消えて、外に咲くジャスミンの香りが、緩やかな風に乗せられて部屋に入り込んでくる。


 町に戻らなくては、と思った。


 壊れた『彼女』が壊してくれた幻は跡を残すけれど、闇の中に引きずりこもうとするかのような深い傷が残ったけれど、その為にではなく『彼女』のために、町へ戻ろうと思った。
 これ以上『彼女』の思いを踏み躙るわけにはいかないし、ナツヤに対しても謝らなくてはならないのだ。


 そこまで考えて、彼は、柔らかな太陽の光が薄い木の葉を通して、幾らかの影を落としつつも彼女を照らしていたその日の事を、はっきりと思い出した。
 今日と同じように暖かで柔らかい、人を包み込むような風がジャスミンの甘い香りを運んで、彼女の周りで戯れる。
 黒く美しい髪が彼女の意思に反して風と遊び、微かに頬を膨らませるようにして、一心に指を動かす彼女の姿を、はっきりと思い出した。
そ して、記憶に眠っていた彼女がその艶やかに濡れた唇をゆっくりと動かして、あの日と同じように、尋ねてきた。


 人間って、何で出来ているのかな?

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