凍 れ る 夢 (前)  

 昔ある国で、戦争がありました。
 それはそれは大きな戦争で、多くの人が兵隊さんとして国から出て行かなくてはなりませんでした。
 そして、病気があった為にずっと徴兵を免れていた男性も、とうとう兵隊さんとして連れて行かれる事になってしまいました。


 その男性には、恋人が居ました。
 小さな時からこの男性と一緒に居て、婚約もしている女性でした。
 男性が徴兵されると知って、女性はとても悲しみました。男性の事を心から心配して、できる事なら一緒に逃げたいとまで思っていましたが、そんな事をすることは出来ません。周りの人から反対されるし、どこへ逃げたとしても戦争だという事に変わりはありませんから。
 女性の悲しみに気が付いて居た男性は、しばらく悩んだ末に、その女性にプロポーズしました。
 戻ってきたら結婚してくれと、そう言いました。
 戻って来れるか分からないけれど、とも言いました。


 男性は、断ってくれる事を思っていました。
 そうすれば、女性は男性の事を気に病むこと無く、自由に生きていけると思ったからです。
 しかし女性は、どこか悲しそうに、一方でとても嬉しそうな顔をしてそのプロポーズを受けました。それを聞いた男性はしばらく黙って、悲しそうな顔をしてありがとう、と返事をしました。
 そして、小さな指輪を渡しました。
 小さな小さな宝石が一つだけはめ込んである指輪ですが、女性はうれしそうに微笑んでその指輪を自分の指にはめたのでした。


 こうして、男性は兵隊さんになって戦場へ出て行きました。
 絶対帰ってくるからと、そう女性に言い残して、崩れてしまいそうな笑みを浮かべて、真っ黒で重苦しい列車に乗って去っていきました。
 それを見送る女性も、風に揺れる小さな花のような笑みで、男性を見送りました。
 硬い黒色をしたその列車が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けて。


「さよなら」と小さな声で呟きました。



 さて、その戦争はその後六ヶ月も続きました。
 最後の方には空から沢山の爆弾が落ちてきて、周囲が全て火の海になってしまった事だって何度もありました。
 強い爆風で壁は崩れ、それでも女性は周りの人と協力しながら何度も家を直し、男性が戻ってくるのを待ち続けました。


 そして、戦争が終わります。


 灰色の塊があちらこちらで崩れ落ち、それはまるで、色の抜け落ちた絵画のようです。
 町のどこに行っても同じような状況で、本当に直るのだろうかと疑問を抱いてしまいそうな、悲惨さです。
 しかし、町の人は希望を持ち続けました。
 跳ね上がった食べ物の値段のせいで多くの人が飢えて死んでいきました。病気になっても治す事が出来ず、苦しんで死んでいく人もいました。
 それでも町の人々は生き続けました。
 家を少しずつ復興させていき、兵隊さんになっていた男の人たちも少しずつ帰ってきました。


 しかし、婚約者の男性は、帰って来ません。


 最初のうちはまだ分からない、大丈夫だと自分に言い聞かせていられた女性でしたが、栄養失調と病気で両親が死に、どうにか治してもらった家で一人待っていると、不安で不安で仕方がなくなってきました。
 昼間は町の復興のお手伝いをして、他の人と話などをして一生懸命に生きていく事ができましたが、夜になり家に戻ると一人なのだという気持ちがしみじみと沸き起こってしまいます。
 幾ら部屋の中で丸く柔らかいランプの光を眺めても、視界の端に映る暗がりに気持ちが吸い込まれてしまうかのような、そんな気持ちです。心の中に隙間風が入ってきて、温めようとする気持ちをすいと冷やして行ってしまうのです。
 そんな状態に耐え切れなくて、女性は毎晩のように涙を流しました。
 友人の家は遠く、両親も死に、彼も帰って来ない。
 そう思うと余計に辛くて、一人ひっそりと、声を押し殺して泣きました。


 そして、数ヶ月。


 町から出て行った兵隊さんはほとんど全員帰って来ました。
 しかし、男性は帰って来ませんでした。


 周りの人は、そして女性も、男性はもう既に死んでしまったのだと思いました。生きている兵隊さんは全員帰って来たはずなのだから、それも当然です。
 嘆き悲しむ女性を、友人達は慰めました。
 良かったら、自分たちの家でしばらく暮らさないかとまで言ってくれました。
 しかし、女性はそれらを断りました。
 男性を家で待たなければいけないからと、柔らかい笑顔で言って、断ったのでした。


 だから女性は、それからもその家で男性を待ちました。
 しかし、当然のように男性は帰って来ません。


 そんな時、女性はふと、近くの森に住む魔女の事を思い出しました。
 戦争中ずっとその暗い森に引き篭っていた魔女で、何をしているか、行ったら何をされるのか、何一つ分からない魔女です。
 町の人は誰一人として近付くこうとしない、そんな魔女の家です。


 もしかしたら。


 と、女性は考えます。


 もしかしたら、男性が今どこに居るのか分かるかも知れない。
 いや、むしろ死んでいるのならそうだという確証が持てるかもしれない。
 そうすれば、この状態を抜け出して昔のような幸せな時間を、取り戻せるかもしれない。
 そう、考えました。


 しかし、相手は魔女です。
 何をされるか分かりません。
 そんな所に行って大変な目に遭っても、誰が助けてくれるわけでもないでしょう。そう思い、女性は悩みました。
 今の状況を続けるか、それともどうなってもいいから魔女の所へ出かけるか。


 悩んで悩んで、女性は出かけようと決心しました。
 何があっても、今のこの状況が続くよりは幾分かマシなように思えたからです。


 女性は、家を出ました。
 町の人に呼び止められては大変と大急ぎで町を抜けて、暗く冷たい森の中へと入っていきました。
 森にはほとんど光が届かず、頭上では多くの鳥が何羽も鳴いていて、女性を不安にさせます。しかし、女性は帰ろうとは思いませんでした。ほとんど獣道に近い道を、半ば草を掻き分けるようにしながら進んでいきます。


 そして、どれだけ進んだでしょうか。
 しばらくすると道が開けて、こじんまりとした木の家が現れました。その辺りは木々が開けていて、明るい光がその家に降り注いでいます。
 怖さは、ありませんでした。女性はその光で少し気分が高揚し、すたすたとその家に近付きます。
 そして、とんとん、と扉を叩きました。
 ぎいっと扉が開き、その奥から「おいで」という声が聞こえてきました。
 今更、迷う事もないと女性はすたすたと中へ入って行きます。


 一体、どうしたんだい?


 見た目にそぐわない広い部屋の中、ベールの向こうに薄い影のみを映す魔女が声を掛けてきました。
 若くもなく、年寄りでもない。
 疲れていないのに倦怠感のある、そんな不思議な声です。
 その声に、女性は一瞬だけ動きを止めました。
 しかし、すぐに首を振って、あの、と声を出します。


 お願いを、聞いていただけますか?


 震えた声ではありません。
 それでも、女性は微かな寒さを覚えていました。


 まあ、報酬次第だね。


 答える声は淡々としていて、それでも少しだけ安心できるような優しさを含んでいました。
 罠かもしれないその優しさに、しかし女性はほっと安心しました。
 長い間、そう、本当に長い間そうやって優しい声を掛けられたことが無かった気がしたのです。
 そのせいでしょうか。女性はその優しさを逃したくないと思いました。だから、少し考えて


 これを……。


 言いながら、自分の指にはめてあった指輪を魔女に見せました。
 それは男性にもらった指輪で、ずっと指にはめていた為に少しだけ、銀の鍍金が色を濁らせています。
 女性にとって、これは唯一の支えでした。しかしそれも、男性のことを考えるならば、と自分を説得させました。


 なるほど。良いモノだね。


 少しの沈黙の後そう答えた魔女は、ベールの向こう側で軽く手を動かしたようでした。小さな黒い影が、軽く動きます。
 女性の手から指輪が消えて、どうやら魔女の元へと行ってしまいました。


 ふむ、いいだろう。だけど、あんたの彼氏の生死までは教えられないよ。


 知っていて指輪をもらったのか。
 そんな、と声を漏らし黙り込んだ女性に対し、魔女はにたり、と笑ったようでした。見えたわけではありませんが、そのような気配がしました。


 しかし、あんたはどう思ってるんだい? 自分の彼氏が生きていると、そう信じて来たのかい? そうだと言い切れるのなら、見せてやっても良いよ。


 そういわれて、女性は黙り込みました。
 自分は、男性が生きていると信じては居ないのだろう、と思いました。
 男性が死んでいるのだとはっきり言われれば自分の気持ちがすっきりすると、そう思ってきたのです。それを考えれば、魔女に対する返事は決まっていました。


 いいえ、いいえ。
 私は、彼が死んでいるという確証が欲しかったのです。彼が生きているとは、希望でならばともかく、現実的には、ほんの少しも思っていませんでした。


 はっきりとした口調で、そう答えました。
 すると、魔女はそうだろう、と言いながら大きく頷いたようです。ベールの向こうで、黒く大きな影がゆらり、と揺れました。


 ならば、選ぶが良い。
 男の居る暖かく平和で、二度と崩れる事の無い昔の夢を見るか。それとも、帰ってくるかも分からない男を永遠に、あのいつ復興するともしれない灰色の町で、待ち続けるのか。


 ベールの向こうの影が、揺らめきます。


 さあ、選びなさい。これがあんたの指輪の、値段だよ。


 言われて、女性は考え込みました。


 永遠の、夢を見る。
 それは女性にとってとても魅力的なものに思えたのです。男性はいつ帰ってくるか知れない、いや、帰って来ないかもしれない。そんな中、あの崩れた廃墟に一人でぽつりと取り残されたかのように、彼を待ち続ける事はとてもできないように思えました。


 それならば。


 女性は、思います。


 それならば、昔の夢でも良い。幸せな時間を、もう一度過ごしたい。


 暗黒の影が立ち上がり、大きく広がりました。


 永遠の、夢を。


 女性の答えに、魔女はにたり、と笑みを浮かべました。


 それじゃあ、叶えてやろう。


 包み込むように優しく、どこまでも冷たい声で。



 永遠の夢を、見せてやろう。



 女性の耳元で、黒い影が囁きました。



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