竪琴弾きと春-6-  

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 一人で住むには、この山小屋は広すぎるのだ、と少女は思った。
 一人で食事をするには視界に入る影が多すぎるし、空間も広い。
 寒いのだ。
 そういった何も無い空間とか、黒い影とか、沈黙の時間が、寒い。


 居間に置いてあった”彼”のコートを手に取り、着込む。


 少女は、口には出さなくてもあの男性のことを”彼”としか呼んでいなかった。彼女にとって、他に人はいなかったのだから、それは当然のことかもしれない。
 家族のことはもとより自分の名前すら覚えていない少女のことを、”彼”がどう思っているのか、そのことが無性に気になる時がある。特に、一人で居る時。冷たい空気が滑り込んできて、闇からそっと支配してくる時。自分という存在が消え入りそうになる時などは、気になって仕方が無い。
 何の記憶も無い少女を生かしてくれたのも、今ここに存在しているのも、”彼”がいるからなのだ。


 気が付いた時、少女の傍に居たのは”彼”と、名前も知らないもう一人の男性だった。
 彼らはどこか驚いた表情で自分の事を見ていて、知り合いなのだろうか、と訝った。
 しかし、彼らのうち一人の男性には見覚えがなく、怖かった。自分がいる状況も自分自身も理解できなくて、そのことに恐怖を覚えた。
 彼らは、自分がしゃべれなくなっていることにすぐに気が付いた。どこかの硬いベッドに寝かされていた少女が、目覚めてから何もしゃべらなければ当然、疑問にも思うだろう。
 医者らしい人を男の人が慌てて連れてきて、少女を見せたが、声が出ない原因は分からなかった。
「口、開けてみて。あーって言ってごらん」
 言われて、少女は戸惑いながらも言われたとおりに口をあけて、声を出そうとした。
 医者に促されて、こうやってみてと言われた通りに真似してみても、繰り返し繰り返し試してみても、声は出なかった。泣きそうに為るまで繰り返してみても、ダメだった。ぐっと手を握り締めて、泣くのだけは耐えた。
”彼”が少し眉をひそめて、伺うようにこちらを見たことは、何故か鮮明に記憶に残っている。
「精神的なものだろうな」
 いくつかの質問をして少女の記憶がなくなっていることを確かめた医者は、そう結論づけた。
 そして、何かを相談する為なのだろう、二人に目配せをして外へ出るように促した。背を向けて暗いテントから出る医者について、男が出て行くのを見送る。
 その後について”彼”も出て行こうとして、ふと、少女の方を振り返った。
「それ、止めた方がいい」
 言いながら、とんとんと軽く自分の唇を叩く。
 ソレを見て、少女はようやく自分が強く唇をかみ締めていることに気が付いた。慌てて唇を緩めて、血の滲んだその部分をちろりと嘗める。様子を伺うようにじっとこちらを見ていた”彼”に慌てて笑って見せれば、”彼”は目を細めるようにして笑って、外へ出て行った。


 ”彼”のコートを着込んだまま、ころんと横になる。
 最初に見た、あの目を細めるだけの笑顔も、いつも少女を安心させようとして浮かべる笑顔も、スキだった。
 何か懐かしいものを見たようで、すごく落ち着く。
 それと同時に、何かを警告するようにズキリと胸が痛くなった。
 それが、不思議だった。 
火照った頬を冷やすように床に押し付けて、小さく息を付く。


 ”彼”に付いて行こうと思った理由は、単純だ。
”彼”のことは怖くなかった。
 最初見た時に、そんなことはありえないと分かっているのだが、見覚えがあるように思ったからだ。もしかしたら、知り合いに”彼”と似た人が居たのかもしれない。
 そう思い、”彼”には迷惑かもしれないと思いながらも、医者と共に戻って来た”彼”の手をずっと放さないでいた。
 もしかしたら、最初はどこかに捨てていこうという話をしていたのかもしれないし、もっと違う話をしていたのかもしれない。どちらにしろ、少女は”彼”から離れるつもりはなかったし、離れてはいけないとも思ったのだ。
「やけに好かれたな」
「……参ったな」
 にやにやと笑う男に困ったように”彼”が返答するので、離れた方がいいのかと不安に思い見上げると、”彼”に苦笑された。
 どうすればいいのか分からずに首を捻る少女の背を軽く叩いて、それで、と”彼”は声を上げた。
 難しい顔をして腕を組んでいる医者と、対照的にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたままの男を順に見回し、どうする、と言葉を続ける。
「こりゃ、お前の役目だな」
「拾ってきたのも、お前だろう」
 男と医者に順々に言われて、”彼”はやっぱりそうなるのか、と小さな声で呟いた。そして、疲れたように続いたため息に、ピクリと震える。
 それに気付いたのか、”彼”はしばし沈黙した後に少女の方を向きしゃがみ込んで、少女と視線を合わせた。
 そして、真面目な声で「いきたいか?」と聞いてきたのだ。


「生きたいなら、生かしてあげるよ。俺たちが協力するから」


 彼らが何故私にそう聞いたのか、わからない。
 ただ、死にたくは無かった。
 自分が誰かも分からず、何故こんな状況になったのかも分からず、生きていた記憶もなにも持たずに死ぬのは、嫌だった。だから、大きく頷いたのだ。
”彼”の腕にしがみ付くようにして、何度も何度も頷いて見せた。
 ”彼”が、辛そうに目を細めて「そうか」と答えた。
 その視線が、不思議だった。


ふあ、と欠伸を洩らす。


 小さな暖炉の前で”彼”のコートに包まり、丸まって横になった状態のまま、少女はそっと目を閉じた。
 目が覚めたら、”彼”が帰ってきて居ればいい。
 そんなことを思いながら、そっと息を吐きコートの中に潜り込む。


 一人は、どうしても淋しかった。

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