夜空の星に響く歌(下)  

 それからというもの、私は喧嘩をしていない日でも、彼に会う為に夜には公園に向かった。
 昼間は学校がある為に会えないし、夕方の公園は人が多いから歌いたくないと彼は言っていた。
 だから自然と、私は夜の公園に向かうようになったのだ。当然のように夜出かける事は親に叱られてしまうから、早めに部屋に引きこもって窓からそっと出て行くことにした。そして彼に会い、歌を聴いて、大体彼が帰るのは夜も遅くなってからだったから、その時に私も家に帰ることにした。

 しかし、私と彼の関係というものは不思議なものだった。お互いの名前を聞くこともなく、只彼の歌を聴いて少ししゃべり、また歌を聴いて時には一緒に歌わせてもらい、帰る。
 お互いのことには何も触れなかった。
 それは、彼と私が再び会うための約束事に近いものだった。
 彼が自分のことを聞かれたくないらしいことは、結構直ぐに分かった。だからそういった無言のルールを作り、守り続ける事で私はその後も彼と会えることが出来るようになったのだ。
 だから、何故彼がずっと長袖を着ているのか、何故ある時にはギターを弾くときに少し顔を顰めることがあるのか、私は聞こうとはしなかった。
 聞いて欲しくないと、彼は無言で私に訴えていたのだ。

 それでも、彼の歌声は様々なことを答えてくれていた。
 何かを、ずっと恐れている事。
 そんな恐れの中でも私に歌を聞かせている、この時間は楽しんでいるのだろうという事。
 そして、彼は私の知らない何かを見ているのだということも。
 時々、私にはそれが恐ろしくてたまらない時があった。
 今思えば中学生にしては大人びている彼の態度は、もしかしたら何かを諦めた事で手に入れたものだったのかもしれない。


「ちょっと、どうしたの?」

 ある日、いつもよりも遅く現れた彼を見て、私は驚いた。
 白っぽい顔は赤くはれ上がっていて、誰かに叩かれたか殴られたことが一目瞭然だったからだ。
 大丈夫、と聞きながら彼に触れようとすると、彼はびくりと身を引いて私の手の届かないところへと逃げた。その行動に少し傷ついたものの、彼が自らへの接触を好まない事を同時に思い出して、ごめん、と言いながら私は手を引いた。

「……いや、気にしないで」

 言いながら私の横を通りベンチに腰掛けると、いつものように平然とギターを取り出した。そして、未だに立ちすくんでいる私を見て少し微笑み、おいで、と手招きをする。
 それに小さく頷いて、私はいつもと同じように彼の隣に腰掛けた。弦を軽くはじいていた彼は痛そうにしながらもふっと目を細めると、今日は、と声を上げた。

「今日は、僕が歌いたい曲、先にやってもいいかな」
「う、うん。もちろん」

 少し慌てて返事をすると彼は嬉しそうに笑って、それじゃあ、とギターを弾き始めた。
 彼が一番最初に私に歌ってくれた曲から、順番に、思い出を辿るように。幾つもの歌が夜空に広がって、消えていく。余韻を楽しむ間も空く、急ぐように、でもゆったりと、彼は曲を奏でていった。
 いつもよりも柔らかく、優しく、壊れかけた何かをそっと包み込むように。
 しばらく曲を歌い続けた後、彼はようやく私の方を見て、リクエストは、といつものように尋ねてきたのだ。
 大体、私のリクエストは決まっていて、その日も私はいつもと同じ曲をリクエストした。いつもと変わらない曲が夜空に溶け込んでいく。

 そのことが、妙に切なかった。

 最後の曲は、私のリクエストではなかった。
 今まで聞いたことのない曲で、どうやら彼の新作だろうと思える。ただ、今までと違って、純粋に優しいだけの調べではなかった。
 思わずぐらりと来てしまう程、哀しくて、切ない曲だ。
 今までよりもずっと冷たい調べが、夜空に響く。
 柔らかく、硬く、冷たく、暖かい。
 そんな彼の歌が、私達を包み込んでいた。

「ごめんね」

 響いた歌の余韻が消え去った後、ギターをいつもより少し遅くしまった彼は、立ち上がり私に背を向けたまま、そう言ってきた。
 いつもより遅くなってしまった事だろうか。
 そう思って、大丈夫だよと答えようとした私を遮るように、彼は再びごめんね、と声を出した。

「僕は、多分君を悲しませる事になる。君の重荷になってしまうよ。最初に会った時にやめておこうかと思ったんだけどね。もう、僕の我侭でしかないんだけど」

 訳が分からない。
 どういうこと、と聞き返そうにも声が出なかった。彼はくるりと身体を回して振り返ると、名前、と声を出した。

「僕の名前、覚えといてよ」

 そう言って、名乗った名前は、今でも鮮明に私の頭の中に焼きついている。
 その名前は彼に似合った、とても柔らかい、名前だった。

 その数日後、ある家庭で起こった無理心中がニュースになった。父親と二人暮しだったその家では、一人息子が時折暴力を受けていたらしい。夜になると、家から締め出されていたそうだ。

 その末の、無理心中。

 可哀そうに、と私の両親は言った。

 辛かっただろうね。

 多分、そうだろう。中学生という若さで死を強要された彼は、かわいそうだ。実の父親から暴力を振るわれて、夜になると外に出るしかない彼は、多分すごく辛かったのだろうと思う。
 そして、弱音を吐くことも出来ない彼の性格もまた。
 けれど、私は知っているのだ。
 それ故の彼の優しさと、柔らかさと、切なさを。
 歌っている時、彼がどんなに活き活きとした顔をしていたのかを。

 彼とは、もう会うことは出来ない。

 それでも私の中には、彼の歌ってくれた淡い歌が、あの夜空に響いたあの歌が、鮮明に、残っているのだ。



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