選択の時は(1)   

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 闇が空を包む頃になれば、当然のように、トオルの家の近くまでは町の光は届かない。黒い袋の中に潜り込んでしまったかのような、息詰まる闇が周りを支配している。
 ナツヤは汗ばんでいた右手に持っている金鎚を掴み直し、そっと、その木製のドアに耳を当てた。
 音は、何一つとして聞こえない。


 八時間程前――ずっと緊張している状態だった彼にとって、それはもっと昔に思えるのだが――に家に帰ったとき、妻が不思議そうな顔をして、どうしたの、と聞いて来た。
 何故その様に聞かれるのかが分からずに眉をひそめると、妻はだって、と声を発し、心配そうに彼の頬にそっと指を添えた。


 すごく、顔色悪いから……。


 そう言われて、初めて自分が目眩のような感覚と共に、吐き気を覚えているのに気が付いた。
 少し気を抜けば、その場に倒れこんでしまいたくなるような、妙な虚脱感が彼を支配する。
 そこまで認識して、それでも彼は小さく笑って、なんでもないよ、と答えた。
 出来るだけいつもと同じように、椅子に座る。
 テーブルに肘をついて、じゃれあう子供たちを眺めながら、さて、と思いを巡らした。


 どうするべきなのだろうか、と。


 トオルがまさか、あんなものを作っているとは思わなかった。
 あそこまでに彼女を思い、現実に戻ることが出来ないほどなのだとも、思っていなかった。
 それ故に、迷うのだ。


 彼が、彼女と過ごすことを望んでいるのは明白だった。
 しかしそれが、本当に彼を幸福にするものだとは思えない。
 いや、本当にそう考えて良いものか。トオルにとっては彼女との生活が今一番大切な物であり、それ以外は望んでいないように見える。
 それならば、その生活を崩さない方が良いのではないか。
 そう、考えてしまう。


 いつもの癖で目を瞑って考え事をしていたナツヤは、くそ、と小さく呟いて目を開いた。
 どうしても、考えをまとめることが出来ない。
 自分が彼にいつもの生活に戻って欲しいと望む気持ちと、彼にこのまま今の生活を続けて欲しいと望む気持ちが、反発しあってナツヤを悩ませるのだ。


 そう考えながらふとテーブルの上を眺めると、一冊の薄い本が目に入った。
 白の混じった水色の表紙と真っ白な帯が印象的なもので、これは確か、妻が楽しげに買ってきたものだ。
 友達に薦められて読み、どうしても欲しくなってしまったのだといって、ナツヤに無理矢理に読ませたもの。


 戦争によって両親と恋人を失った女性が、魔女に頼んでもらった薬を飲んで、彼女が最も望む夢に沈んでいく。
 しかし死んだとされた恋人は、戦場から命からがら逃げてきて、眠り続ける彼女の元に辿り着く。
 男は憤り魔女の元へ行き、眠りを覚ましてくれるように頼むが、彼女がそうと望まぬ限りは眠りは覚めぬし、また、そうなる事はありえないだろうと言う。
 しかしこれでは余りに可哀そうだから、お前にもこの薬をやろうか、そう言って薬を差し出してくる魔女を見て、男は悲しそうに首を振り、眠り続ける恋人の元に戻っていく。
 そして恋人をずっと見つめながら、男は復興する町を眺める……。
 大筋は、その様なものだった。


 ナツヤはその薄い本をパラパラとめくりながら眺めて、ああ、と小さく呟いた。
 やはり、自分に出来ることは一つしかないと、そう思った。
 迷いはあるが、そうする事のが最適だと思うし、彼にはそうする方法しか思いつかなかった。


 夢に、過去に囚われ続けるのは、悲惨なのだ。
 幾ら美しく楽しいものでもそれは現実ではなく、檻の中、狭い箱の中に広がっている世界。
 そこに囚われ続けるのを良しとしても、それはいつかは崩壊するのだ。
 幾らミカにそっくりな『あれ』を持っていたとしても、それはトオルが支えとするには余りにもはかない希望だ。
 本人はそうと思っていないかもしれないが、何時崩れるかもしれない『それ』を彼の支えとしたまま放っておくことは、ナツヤには出来ない。
 お節介かもしれないし、彼にとっては不幸かもしれないが、それが理解されないとしても、彼の支えが崩壊した時に沈み込むだろう穴に落ちていくのを見るよりは、恨まれても良い、それを防ぐのが最善なように思えた。


 多分、自分はどうしようもないぐらいに愚かなのだろうと、ドアの前に立ったまま、ナツヤは苦笑した。
 トオルを説得できるだけの話術もなく、こうして乱暴な方法しか思いつかない、そして自らが恨まれるのを厭わない自分は。
 しかしこれしか道がないのなら、そうするしかないのだろうと、彼は思う。


 だからこそ……。


 ナツヤは、そっとその扉を押し開けた。

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